神戸尊刑事はやめるの?

テレビを持たない私、ネットの使いこなしもできず、世の中のことが以前に増してわからなくなった。

というわけで、贔屓のドラマ「相棒」も観れず、神戸くんがやめることをさっきネットのなかで知った。エーッ! やめるなんて! テレビを買ったら真っ先に相棒を観て、神戸くんの活躍を楽しみたかったのにィ〜!

新聞販売所のおじさん! 山羊を飼うのは文句はつけないけど、その飼い方あんまりでしょ!

隣りの市の新聞販売店のおじさんが、山羊と兎を飼いだしたのは昨年の秋だったと思う。私は特に「ちゃんと飼ってるかなんて咎めだての視線で見ていたわけでは決してないが、ある雨の日に、山羊が雨に濡れながら、置いてあるビール箱の上に片足で立っているのに気付いた。いかにも不自然で、つい車を止めてそこに行ってみた。

すると、小屋はいいかげんな作りで雨がざぁざぁと漏っており、地面が水たまり状態なのである。「これはひどい」とあたりを見回したら、道路沿いの兎たちはもっとひどいことになっているではないか。小さな小屋にぎゅうぎゅうにつめられ、底は糞がびっしりで、しかも雨が中に振り込み糞はどろどろ。兎たちは細い板の上に、みんなが小鳥が並んで止まっているようにして蹲っている。

この日の夜、福島に給餌に行く日で、私はそのための買い物にホームセンターに行きそのあと少し眠っておきたいと思っていたのだが、山羊と兎をこのままにしておけず、ホームセンターから、すのこ、ビニールシート、大判の板などを買って、山羊と兎が少しでも居心地良くいられるよう応急処置をし、おじさんあてに、「このままでは病気になって苦しみますので、気をつけてあげてくださいな」と置き手紙をして帰宅したのだった。

その後まもなく兎小屋には荷物が置かれて、つまり兎は一匹も姿がなくなり、山羊小屋は私が応急処置をしたままになっていた。私はそうした愛のない飼い方をされている動物を見るのが辛く、その道は通らなくなった。



そして今日、久しぶりにそこの道を通った。

そして、心臓が凍りそうになった。

山羊小屋は、近くの空き地に移動になっていて、移動は別にいいのだが、小屋が二つ、それもちょっと風が吹いたらふっとびそうな簡易小屋で、小さな方に、大きな山羊が二頭、身体がはみ出ている状態で座っている。

心臓が凍りそうになったのは、もうひとつのちょっと大きい小屋である。車から見ても、お乳のはったお母さん山羊と、人間で言えば二、三歳と思われる子ヤギが三匹いるとわかり、みんな立ったままなのである。

キキーと音を立てて車を右に曲げ、空き地に突っ込むと小屋のそばに行った。思った通りだ。お母さん山羊と三匹の幼い山羊たちは、床には泥水がたまり、座りたくても座れる状況でなく、ガタガタと震えていたのである。

私はすぐに指導センターに電話をし、「山羊があまりに可哀そうだから、すぐに改善を指導してほしい。すのことビニールシートがあればとりあえずは座れるようになるから、飼い主さんもそのくらいはすぐにできるでしょう。指導をお願いします」とお話しした。

だが、この地区にまわるのは水曜日と決まっていて今日は行けないという。

仕方ない。結局、私は本当はうちの猫と犬のためにフードを買うためホームセンターい向かっていたのだが、急きょ、すのこ二枚、大きくて丈夫なビニールシートを買うことになった。

一応販売店のお店に声をかけたが応答なし。さっさと自分で処置することにした。

そして、すのこを敷き、小屋の屋根にシートをかけたのだが、お母さん山羊は子育て中であり、気が立っていて私に向かってくるのではないかと心配するも、まるで私の思いがわかっているかのように、全く穏やかにすのこが敷きやすいように動いてくれたのである。そのいじらしさに涙もろい私はベーベー泣いてしまった。

泣いたと言えば、ビニールシートが大きいのでなかなかうまく小屋を覆えず、雨にびっしょりになりながら奮闘していると、学校帰りの中学生の女の子が、自転車を降り、駆けつけ手伝ってくれたのである。その上、カバンからタオルを出し、「顔と頭を吹いて下さい」と言ってくれたのである。ほんとに感涙だった。

この後、すのこが足りず、お母さん山羊のいるところがまだどろどろなので、家にいったん帰り、壊れたホットカーペットを丸めて箪笥の上に置き猫たちの昼寝場所兼遊び場にしていたのを持って、また山羊さんの場所に戻り小屋に敷いた。この時、お母さん山羊は自分も子ヤギも外に出し、敷きやすいようにしてくれたのである。

そういうと、多くの人は「そんなのたまたまだ」と言われるだろうが、いいえ! 敷きやすいように自分たちはどいてくれたのです!!!


新聞やのおじさん!

お願いですから、山羊を飼うなら、自分の孫の世話をする気持ちでめんどうみてください。あるいは自分のことにあてて考えてやってください。おじさん、あなたはやがて誰かの世話になる身体になるかもしれない。その時、動けなくなった自分のいるところに、雨が落ちてきたら、床がびしょびしょになったら、どうしてほしいですか?

「おれは人間だ、ちゃんと濡れないように、乾いた場所に移されるのは当然だ。動物はいいんだよ、あれで」と言われますか?

もしそうなら、あなたは常にそこらじゅうに茨の種をとばしている。その種は、そこらじゅうに茂り、人間も勿論、命あるもの全てをを苦しめていくんですよ。誰よりもあなた自身を。



ー別ブログにも公開ー

マインドコントロール

あるタレントさんが霊能者という人にマインドコントロールをされ、かなり深刻な状態にあられているという出来事は、テレビを持たない私でもラジオやネットから伝わってくる。
今日は爆笑問題さんのラジオの放送で、囚われの身のようだったタレントさんは御親族や仕事関係の方によって、霊能者から放されどこかに無事に避難されたということを報じていた。


詳しいことが誰もわかっていないようで、ましてファンでもない門外漢の私などがなんだかんだと言うのはよくないのは承知で、どうしても気になることをちょっと言ってみたい。

それは、霊能者という人は、何のために彼女をマインドコントロールしているのか、ということだ。宗教や思想上の目的のためにマインドコントロールという技を使うことがあるのは、書物などで読んだことがある気がするが、この人は何が目的だったのだろう?
お金を巻き上げるためだったのだろうか?
それならタレントさんを閉じ込め状態にしないで、働きに出てもらった方がお金になるではないか?

「私の乏しい想像力などではさっぱりわからないなぁ・・・」とボソボソ思っていてふと感じたことがある。


こういう事件になりかねない形ほどではないが、結構世の中には、他者に寄生して、その他者の美徳を吸血して自分を保とうとしているような人は多いんじゃないかな、と。

最近の継母

父亡き後、千葉のある街で独り住まいをしている九十三歳の継母。昨年から片目が不自由になり、私が時々介助に出向く。

今日も行ったのだが、いつもは道路が混んでいても三時間で行ける所なのに、今日は片道三時間半もかかってしまった。


ところで継母の様子なのだが、最近いつ言っても大食なので驚く。

思わず、「・・・・・・そんなに食べて大丈夫?」と言ってしまう。

「大丈夫よ、これっぽっち」と、私の三倍は食べる。

そして部屋の乱雑さにも驚く。乱雑は私も負けないが、継母の場合これまで綺麗好きだったから最近のいいかげんさに驚くのだ。


これって・・・・・・・ナントカの前兆ではないかしらん・・・・・・・と気になる。

夫がそうなる前も、なんとなくこれまでと違う、と言う感じであった。どこかのたががじわりじわりとゆるんできた感じ・・・・・そしていきなり、押入れをトイレと思いこむ行動がはじまったり・・・・・う〜ん、そういうナントカの前兆だとしたらちょっと大変かも・・・。


それとなくヘルパーさんに週に二日くらい家事の手伝いにきてもらう手続きしましょうか、と言ってみたが「なんで? わたし、こんなに普通なのに」と。・・・・・・フ〜ム。

雪の日

毎夕六キロの道を歩いて猫の餌やりにまわる。

今日は雪がまだ舞っていたし、森の道には雪も積もっていそうだし、一番いやなのは森の道ではちょっとした風でも木々に積もった雪が落ちてくる。だから車で行くことにした。


エンジンをかけライトをつけたが前がぼおっとしか明るくならない。

「ありゃ、雪でライトが壊れちゃったか」と、私は車を諦め歩いて行った。主要道路でも雪がぐちゃぐちゃに残っていて歩きにくく、帰った時はヘトヘト。

そして気付いた。車の前面のガラスに、雪がびっしりと積もっており、だからライトをつけても明かりが照らなかったのだと。


私のこうしたヌケサクぶりは数え切れず、時に人から、「よくそれで長年生きてこられた」と言われる。

眠いなぁ・・・・・

異常に眠い。死にたいくらい眠い。
何かから、おそらく現実の全部から、逃げたい、いや、現実のなかで生きあぐねている自分を消し去りたいのだろう。

ふぅ、ほんとに眠い・・・・・・・・・・・・・・・・・。

深まるばかりの癒えぬ傷

ネットの記事で、俳優の菅原文太さんが、ご自身が仙台出身で震災の傷を深く抱いておられ、そのために出演の決っていた映画の降板や他の俳優としての仕事を断っておられると知った。


文太さんは俳優活動をはじめられたご子息を亡くされる悲しみも抱いておられるに違いなく、なおのこと震災の傷はご自分の生き方を変えるほどに重いのだろうと、胸がつまるものがある。


文太さんの悲しみの深さや重さにあててなどそんな思い上がった気持ちでいうのではないが、私も警戒区域に指定された地域の動物たちへの政府や県の対応に、かってない重い傷を受けている実感がある。


牛たちのすさまじき死、猫や犬の荒涼たる死をみて、その死そのものに対してと言うより、死に至るまでの動物たちの心を察し、私自身もまた傷がどんどん深く重くなっていく感覚なのである。


飼い主をどれほど呼び待っただろう、待っても待っても呼んでも呼んでも飢えと渇きの苦痛が増すばかりになる、それの恐怖、不安、そしてなお待っても待っても待っても呼んでも呼んでも呼んでもついに叶わない時間がつづき、その凄惨な寂しさ、辛さ、悲しみ、失意、落胆・・・そうした心が哀れで哀れで、可哀そうで可哀そうで、自分を殺したいほどになるのだ。


自分の無力、非力の現実がまた自分を苦しめていく。

癒える日はくるのだろうか。


ー別ブログにも掲載ー