深まるばかりの癒えぬ傷

ネットの記事で、俳優の菅原文太さんが、ご自身が仙台出身で震災の傷を深く抱いておられ、そのために出演の決っていた映画の降板や他の俳優としての仕事を断っておられると知った。


文太さんは俳優活動をはじめられたご子息を亡くされる悲しみも抱いておられるに違いなく、なおのこと震災の傷はご自分の生き方を変えるほどに重いのだろうと、胸がつまるものがある。


文太さんの悲しみの深さや重さにあててなどそんな思い上がった気持ちでいうのではないが、私も警戒区域に指定された地域の動物たちへの政府や県の対応に、かってない重い傷を受けている実感がある。


牛たちのすさまじき死、猫や犬の荒涼たる死をみて、その死そのものに対してと言うより、死に至るまでの動物たちの心を察し、私自身もまた傷がどんどん深く重くなっていく感覚なのである。


飼い主をどれほど呼び待っただろう、待っても待っても呼んでも呼んでも飢えと渇きの苦痛が増すばかりになる、それの恐怖、不安、そしてなお待っても待っても待っても呼んでも呼んでも呼んでもついに叶わない時間がつづき、その凄惨な寂しさ、辛さ、悲しみ、失意、落胆・・・そうした心が哀れで哀れで、可哀そうで可哀そうで、自分を殺したいほどになるのだ。


自分の無力、非力の現実がまた自分を苦しめていく。

癒える日はくるのだろうか。


ー別ブログにも掲載ー