悪貨は良貨を駆逐するというが・・・『野良猫に餌をやるな、餌をやる人間および捨てられた猫や犬をかわいそうに思うことは悪』主張を考える

30年ほど前のことだが、ある知人がこんなことを言われた。
「事実より噂のほうを重視する」と。たとえば、娘さんの縁談話がおこったら、相手の人に何か自分たちにとって不都合と思える噂があったら、それが真実かどうかはどうでもいい、事実よりも流布されている噂を重視して縁談は破談にする、というのだ。
当時の私はそういうことを本気で考えているその知人をよく思わなかった。


あれから年が経ち、さまざまな経験の中で、『あの知人の言われたことは社会の通念になっており・・・というより、社会が知人の言う通りに出来上がっているのだなぁ』と感じることに何度か出合った。
個人と個人の人間関係の中でも、何かで属した組織の中でも、真実とは関係なく、自信をもって他者や事柄について悪い印象にとれることを作りあげ、執拗に流布していく人が生き残っていることを目の当たりにしたのだ。しかも人の多くは、そうした流布に非常に影響されやすく、高い学歴や知性や指導的立場を擁して、真実の洞察をしようと思えば容易にできそうな位置にいる人であっても、なにあがらうことなく作為を持つ者に加担していくのである。

それに留まらず、自分の思考思想を社会に影響させたいという意識を持つ一部の人は、そうした人々の習性のようなものを知りつくした上で、自分を脅かすもの、反対するものを、流布を操作して排除し、指導的位置の自分の安泰をはかるものもいるのだ。
そしてそういう中で諍いが生じた場合、もはや何が良貨で何が悪貨であったかなど誰にもわからなくなってしまう恐ろしさもある。


突然飛躍するようだが、私が身を持って上に書いたようなことを感じることのひとつに、『野良猫に餌をやるな、餌をやる人間および捨てられた猫や犬をかわいそうに思うことは悪』という主張がある。この主張はまさに本来自然で豊かなはずの人間性を歪める悪貨であるなぁということだ。

根底には殺処分をされる犬猫を減らそうという動物愛護の法にのっとっての言動で、その根底そのものは決して悪貨ではないが、自分たちの想定図を重視するあまり、『捨てる人こそなくそう』という努力を二の次にして、命や心に感応する思いすら悪にしてしまい、そういう人々を世間が敵視、あるいは蔑視するように仕向ける行為は悪貨だと言わざるを得ない。

先ごろ話題になったある著名な人が訴訟まで起こされたのはそうした悪貨の影響のひとつと私は感じるのだが、騒ぎが大きくなると、何が悪くて何がどうなのかわからなくなってくるから、悪貨の影響力は怖いとも思う。
30年前に知人が、娘の縁談は事実より噂があるかなしかで決めると、そうやって保身をはからなくては社会に立っていけないというのは、こういうことなのだなぁとあらためて思ったのだった。

犬猫の問題は、犬猫そのものは何も言わず、糞や鳴き声など実際的な”迷惑”が目前に起こるから、これも人々に、餌をやるものは悪、という通念を植え付けやすく、まさに悪貨の思うままになりやすい。ひどい場合は、自分に反対するものの家に、犬猫を捨てにいかせるという行為すら起こす悪貨がいるが、これも数の上で反対者は圧倒的に少ないから、悪貨の正体が露呈することはなく、捨てられる側はそれだけ苦境を抱え、ますます世間からも許されなくなるのだから、文字通り悪貨に駆逐されるわけである。私など癇癪持ちで稚拙な部分の多い人間なので、ある程度の洞察力はあるつもりなのだが、悪貨の前に手も足もでず崖から落ちるばかりである。(ま、崖下の暮らしも悪くないからいいのですが)


この記事を書こうという気になったのは、最近たびたび報道で知るこどもへの信じがたい虐待の様相からだ。
動物、人間を問わず、小さなまだ自分では生きていけないものが、命をかけて必死にSOSを叫ぶ、その声にも感応しない社会になってしまっていることは、自然の成り行きなどではなく、いくつもの悪貨がひたひたと社会にしのび人をかえていっている証のひとつではないか、と思うからだ。


だが、悪貨の力が作用しているとするなら、良貨の作用が必ず起きるという希望がもてる。それらは結局は自分の心に問うことであるが。