ありがとう

そこがどのようなところか、場所はわからなかった。ただ決して明るい場所でなく、人間の手で作ったものはおろか木や草もない暗いところであったことは確かだった。でも怖いとか寂しいとか感じるところでもなかった。
私がそこにいると、夫があらわれた。といっても、夫は生きていた頃の姿ではなく、いわば気配を形に描いたような存在になってあらわれた。
私はそれが夫だとすぐにわかった。そして、「ありがとう」と言葉に出していった。夫の気配は答えなかったが、私には、「ありがとう」が伝わったとすぐに感じた。


ここで目が覚めた。
私の大きな心残りの中に、夫に、「ありがとう」と一度も言ってない、というものがあった。
夫はまだ生きていられるはずだったから、退院したら、これまで以上に静かな暮らしにしていかなくてはならないと思っていた。散歩を強いたり、いやな時は入浴も休んで、無理のない暮らしを心がけようと思っていた。そうしてやがてくる最期の時刻までを、感謝の思いと微笑みだけにして、静かに静かに暮らしたいと念じていた。


思いも寄らない突然の死で、それも惨めなかわいそうな死であったことで私は無明の迷い道に入り込み、心を刺にいっぱいにしてあがいていた。
”せめて、ありがとう、と言いたかった”という思いがこみ上げるたびに、うなだれ泣き続けた。

夢のなかで、夫は気配となってあらわれ、私の”ありがとう”を受け止めてくれたのだ。


目が覚めて、大声で叫びわめきたいほどの悲しみがつきあげてきたが、それが過ぎてから、私は胸の底に、ポツリとした安堵が小さく形作っているのに気づいた。種のように。


この種は、私のこれからの”希望”なのだと・・・そう感じた。