死の前日

毎日何度も思い出すことがある。
死の前日、「また明日来ますね」と言って帰りかけたとき、夫がじいっと私の顔をみた。何か言いた気であった。
またベッドに寄って「なあに?」と訊いたがはっきりとした言葉にはならなかった。
「早くなおって、家に帰ろうね」と言うと、かなり強く頷いた。

この時の、はっきりと頷いた顔が何度も何度も何度も浮かぶのだ。
その時は、帰ろうね、といわれて、「うん、帰りたいね」と言いたかったのだと思ったのだが、日が経つに連れて、もっと言いたかったことがあったのではないかと思えてならなくなった。なおってなくても、今すぐ、帰りたかった、そのわけがあった、という気がしてならない。

夫はそばで誰かが話す言葉は全部聞き取っていた。それは間違いない。無神経な言葉、無遠慮な言葉、痛みを感じる言葉、みんな感じ取っていた。本当にそれは間違いない。

私は何を疑っているのだ。自分こそ言ってはいけないことも言ってきたのに。
そう自分を律しても律しても、死に行く耳に何を聞き、早く家に帰りたいと思ったのか。あの頷きは、なおらなくてもいいから家に帰りたい、今連れて帰ってくれ、という頷きではなかったか。

ごめんね、ごめんねと何百回、何千回謝っただろう。でも癒えない。かいそうでかわいそうで辛くて辛くてならない。
こうしてしまった主犯は私だ。きちんと検査をして正しい治療をしようと努力してくれる病院を探すべきだった。惰性のなかにおかれて、誰にも心を尽くしてもらっていないという不安を感じながら私は行動をおこさなかった。頼ろうとした。その私こそ、まだ死ぬときはきていなかったはずの夫を死に追いやったのだ。主犯は私だ。生きている価値もない。


手続きなどどうでもいいんだ。放っておけばいいのだ。何かやっていれば気がまぎれるなどアホの骨頂だ。手続きがすすむごとに夫のものが消えていく。どこまでひどいことをするつもりか。本当に私など生きる価値もない。