昨日の雑記

■福岡の子供を殺した母親の自供
ネットのニュースによると、母親は身体に障害があり、トイレを使う際には、子供が介助をしていたという。そしてその日、公園のトイレで、母親はトイレに行き、子供に介助を頼んだ。すると子供は、「お母さんなんかいらない」と言ったという。この言葉に絶望し、母親は自分の自殺用にバッグに入れて持っていたホースで子供の首をしめたという。


実際は報道だけでは何も本当のことはわからないのだが、このニュースを読んだ時、日頃、母親の心、思いを胸を開いてしっかりと受け止めてあげる人は誰もいず、この母親は常に氷上に立っているような不安、孤独感に苛まれていたのではないかと感じ、なんともいえない悲しみを覚えた。


人間はつまるところ、自分がこの世に存在していることの証や意味など考えるまでもなく当然であることを自他共にわかっていれば、自分の生死までも揺るがす深い孤独につきまとわれることはない。
だがその証を得られない者は、常に他者、特に家族からそれを得ようと無意識に求めているものだ。
この母親もそうであったのだろうか、と思い、自分のことのような悲しみが突き上げてきたのだ。自分の子供を殺したい母親などいるはずがない。それでも殺してしまう。それだけこの人が日頃から残酷な孤独感に苦しんでいたのだろうと。


■昨日の夫の
午後になると病院に行き、ひげをそったり、院内を散歩し、その後リハビリ室に入った夫を中庭で待って、それが終わったら、一階のロビーのテーブルでおやつを食べる。おやつはカステラ状のお菓子と梨をその場で摩り下ろしたものだ。
それから病室に戻って夫は昼寝のためにベッドに横になる。
夫がうとうとするのを見計らって、私は一度帰宅する。犬たちや猫たちの食事をさせるためだ。日が短くなってきたので、明るいうちに食事を配っておきたいとそうしているのだ。暗くなって空腹のままでいるのはかわいそうだし、また犬たちの健康状態や様子を見ることができない。それで夫の休息の間に食事をやるわけだが、数が多いので時間がかかる。うっかりすると、病院の方に戻るのが夫の夕食開始ぎりぎりの時間になってしまう。


今日もそうなってしまった。そういう時は看護師さんが食堂までつれていって下さっているのだが、今日の看護師さんは、私が来るだろうという想定のもと、夫はベッドから起こされないままになっていた。
夫は自分だけ取り残されたと思ったのかひどくすねて、起こそうと介助をしても意識的に拒んで起き上がってくれない。頑ななさは尋常でない。それをなんとかなだめて食堂に連れて行き、やっと食事をした。食事はきちんととってくれたのでほっとしたが、疲労が倍加した。そうでなくても、夜は毎日ヨレヨレ状態になってしまい、仕事も手につかない。たまる一方で、その焦りがまた疲労を増す。
自分が時間や体力の切り盛りをうまく出来ないことが情けなくてたまらない。せいいっぱいやっているのだが。