「長崎夏海の直球勝負」を読む(著者 長崎夏海/装丁 中川英祐/発行 プラス通信社/発売 影書房)

私が子どもだった時は、しょっちゅう騒動をおこしていた。ビールの王冠をつぶしてバッジにするために線路に置いたり、住宅の水道栓をあけて「噴水だぁ」と騒いだり、学童保育を抜け出して焼き芋屋」さんの手伝いをしたり、パトカーにのせてくれと交番の前に居座ったり・・・・・・。それでも、なぜか、自分のことを「良い子」だと思っていた。そして、きっと、まわりのおとなも、私を良い子だと思っていると信じていた。

この本はこうしてはじまる。
私は読み始めてすぐに、「そうか、長崎さんは、世界中の“良い子”にこの本を書いたに違いない」と思った。
そしてそれはそのまま、長崎夏海のデビュー作「A DAY」に代表する痛みつづけた少女たちにだ。
と言ってしまうと、作者はいやだと思うかもしれない。それではまるで孤独だった魂の自己慰撫のようではないか、と。


とんでもない。自己慰撫としてなど読むわけないではないか。むしろ逆だ。自分の身を削り取って自分の芯に向き合おうとしているような、そんな疼きを感受していた。


教師や親やまわりの大人たちに悪態をつき、教師のいじめの標的にすらされるほど存在感の確かな“良い子”の芯は・・・それは読む人それぞれに受け止めるものは異なるだろうが、私は、素っ気ないほど飾り気のない、でもそれは高慢や無知の素っ気なさでない、ひとことで言葉を探すのは難しいのだが、“純朴さ”“素朴さ”の姿が顕われた、と言ったらいいだろうか。


例えば、「本の力」の章で、「流全次郎(男組のヒーロー)は好みの男性で、王子さま(星の王子さま)は心の宝物の男の子だった」とあるのだが、なんと余計なものを身に着けていないさっぱりと純朴な子だろう、と私は胸がいっぱいになってしまった。
もしかしたら作者自身も、読者の多くの方も、そんなに感動する特別な表現の個所ではない、と言われるかもしれないが、壮絶な“不良”として生きる中学三年の少女が、さりげなくこうした意識を抱き続けているというのは普通ではない。これはまさに“野の花”の本質なのである。

私はそして、こんな野の花を、残酷にさまざまに飾り立てさせてしまう教師や親という大人になってしまったものへの怖れ、そう、自分も別のところで深い傷を受けたという怖れを持つとともに、そうした大人の宿命こそ残酷で、だけど哀しいけど気付かなければ誰もが、まさに少女たちも、ある面においては、少女たちをいたぶる教師や親になってしまっていることもあるだろう、とさまざまな物思いを抱いた。


そのことは、作者自身がよくわかっており、仲間との関係の中で、その宿命をより知ろうとする日が来ることを予感させている。こういうところをいかにもな書き方をせず、のほほんと書き過ごしているところが、長崎夏海の純朴さでありスケールの大きさなんだろうな、と思った。


話をもとに戻すが、私はこの本を読む現在の中学生たちが、自分の“本質”に気づいてくれることを願うし、それに至る力をひそめた本であると思う。


感想としては以上が竹の節のように自分に突きつけてきた点であるが、もう一点正直に本音を吐露すると、タイトルにはちょっと違和感を覚えるものがあった。
風はどんなに激しく吹こうと、勝負のために吹くことはないのだ。私はこの本を自分の内から自然にわき起こる風ととらえたものだから、それに相応しいタイトルがよかったなど思ってしまった。