大江健三郎 著「自分の木」の下で

図書館で大江健三郎さんの”「自分の木」の下で”を借りてきた。読み始めてすぐに、「あ、大江健三郎が少しわかってきた」と思った。私は大江さんの出身の町に近い小さな村(今は市)の出身で、大江さんのことは単なる読者という以外の関心をもっていた。でも書物を読めば読むほど見えなくなっていた。

これはツイッターで呟いた記事だが、もう一言付け加えておきたいことがあってここにあげた。

この本を読んで、私ははじめて、「大江健三郎という人は、現代の聖人だ」と思った。誰かがすでにきちんと考察して書いたり言われたりされているかもしれない。私の場合は考察できるほど知識がないのでただこう感受した、としか言えないが。


そしてもうひとつ思ったことは、この本から学ぶべきことが実に深くある、ということだ。


私は、自分も含めて人間の浅はかさを思い知ることが繰返し繰返し繰返し繰返しあって、ここのところどうしようもなく沈んでいる。薄知恵をもって成る自分というものは、他者の浅はかな知恵や洞察で物事や人間の価値を決定する。その恥ずかしさ。そしてそこそこの成功者ほど、そこにふんぞり返って他者を下におきたがる。なんと恥ずかしいことか。


例えばこうした人間の姿を、現代の聖人はしずかに見つめているようで実は滾る魂を鎮めながら見ているのだなと、そうした人間臭さに涙が出そうである。