新参者「赤い指」にまつわる感じたこと

新参者「赤い指」を観た。前のシリーズを観た時のような新鮮な感興はなかったが面白かった。ただ今回の加賀恭一郎はちょっとしゃべり過ぎ。真実がどうのこうのはしゃべらなくても、犯人側のうろたえる心象の背後に、一見茫洋としてみえる立つ姿で、あの男が真実と愛の化身であることがわかる。


赤い指は、認知症の高齢者が物語の核になっており、自分の息子の犯行を隠そうとする夫と妻が、認知症だから何も分からないという思い込みの上で、夫の認知症の母親を犯人に仕立てようとする物語だ。

認知症者への認識は、この夫婦と同じの人がまだまだ多いだろう。そして、加賀恭一郎の投げかけで夫婦は自分たちの過ちに気付くのだが、その過程で、認知症の母親が真実を知らせようとして行動したことを、妻が、「私たちをわなにかけようとした・・・」と理解するくだりがあったが、こうした理解の仕方も多くの人間が陥っていることだとしみじみ思った。「わなではなく、真実をわかってもらいたかったのです」という意味のことを加賀が言うが、この時胸にこみ上げるものがあった。

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↓はツイッターより


4)そして、彼女を擁護する文を書かれた東野氏にも失意の不快感をもった。薄っぺらだった。猫でしかない、物、という認識。今の日本では、殆どがそうであるから仕方ないが・・・最も弱いものは常に、強者や多数派の一切を映す鏡なのにね。作品ではそれが描かれているのに、人間以外の命は物かと。



3)こうした選択のポリシーがあることはわかった。それより不快に思ったのは、彼女がマスコミに守られてると見える言い訳と己の正当性を新聞にわざわざ掲載されたことだ。この不快感、悪感情は、マスコミに守られる力を持たない自分のやっかみとわかっていたが、蔑視感をもつほど不快だった。



2)その時、東野氏が彼女を擁護された。私も彼女をバッシングした一人だが、私が強く悪感情をもったのは、彼女の行為そのものではなかった。生まれて母親のお乳も飲めず投げ捨てられる子猫の哀れさと、子猫を必死で探したに違いない親猫が哀れで、そのことの怒りも強かったのだが、



1)東野圭吾の作品は新参者に限らず、ついつい引き込まれてしまうし、本も新刊が出るとついつい買ってしまうが、私はこの作家が気に入らない。というのは、何年か前に、ある著名な女性作家の、飼い猫が生んだ子猫はみんな崖下に投げ捨てる、という文が公開された後、大変なバッシングを受けたが、