別ブログからの転載=犬猫たちとの”共生”は・・・ひとつ問いたい

ちょっとしたきっかけから、我が家に次々と猫や犬を置いていかれるようになって30年近くになります。
成行きのまま、たくさんの犬たち猫たちと暮らしてきて、私個人の心のうちでは、彼ら動物たちを家族とも親友とも思い、心の交感をもちながらの時間だったのですが、現実的には鳴き声や臭いや経済的負担などいろいろと問題が起きてきますから、本当に苦しい大変な日々でした。多数の命ある存在を受け入れるということは、その命との別れもまた多数あるということですから、悲しみ、寂しさ、辛さの日々でもありました。

そうした30年間を通して、動物と人間の関係について、さまざまに思うことがいくつもあるのですが、そのひとつに”共生とは”ということがあります。
ひとくちに共生といっても、野生生物との共生、自然との共生など、同じ枠では語れない違いがあり、それは認識しておかなくてはなりませんから、ここでは、犬や猫など人間が大昔から身近な存在としてきて人間の保護なくしては生きられなくなった動物に限定して、私の実際の暮らしの中から自然に思い、願うことを書いておきたいと思います。

ここ数年、動物行政や愛護団体などが、”共生”という言葉を掲げておられることが目につきます。私は、それを目にするたびに、『共生は賛成なんだけど、でもなぁ・・・・・』とぽつんとした点のように腑に落ちない気持ちがおこるのです。
それは、実際の行政や団体や活動家の一部に、共生とはほど遠い言動が多々見えるからです。

例をひとつ挙げますと、捨てられ飢え、親を必死で探す子犬や子猫、あるいは老いて捨てられ悄然としている犬や猫を見捨てることができずに抱きしめてしまう人々を、悪い行為と位置付けていく言動です。時折、テレビ局が押しかけて、犬だらけ猫だらけの家になった中で、憤りの表情を見せているその飼い主を映し晒し者にしている光景を見ますが、そうさせているのが動物愛護関係であったりすることもあるのです。

私個人も、私が信頼している人の名前を使って、テレビ局のプロデューサーという人がビデオカメラ持参で来られたことがあります。後に、私が信頼している人は何も関係がなかったこと、偽って私の家に入り込み多数の猫や犬の暮らしの様を撮りたかったこと、背景にある団体が動いていたことがわかったのですが、それらがわかった時、私の心が傷ついたのは、『動物愛護と銘打っているこの人たちに、動物の心と命への愛など何もないんだ。そして私のように不器用にただただ命を救いたいと地を這うようにして生きている人間には、見下しの気持ちをもって、何をしてもどのように貶めてもいいと思っているんだ。動物愛護活動が、こんな尊厳のなんたるかを知らない義なき人たちが主流になって行われているとは・・・』という絶望感でした。

こうしたいくつかの失意を経たこともあり、私は、動物たちの命と心に交感する魂のない人たちが掲げるビジョンめいた言葉、その人たちが組織力、政治性を駆使して行う華やかなアピールに即した”共生の形”に疑いと不安感を抱くようになり、もうたくさんだ、自分の内からわいてくる思いにのみ従っていこうと決めたのです。

それは至ってシンプルな次の3点です。
①犬や猫たちとの共生の形は、自分が飼っている動物に対して、生まれたこどもの里親探しをする自信がなく、捨てるか放置しておく、と思うのであれば、”不妊手術を施す”・・・の一点のみを心がけ、あとは犬はその人その人の暮らしに合わせて繋ぐか囲い内で飼う、猫は自由にさせていい、それ以上の管理の形を作るのは行き過ぎだ、ということ。

②野良猫にされ飢えに苦しんでいると見える猫に対しては、哀れでならないと感じる人が適度な食事をあげることは何も悪いことではない、個人的に可能なら不妊手術を施すことをすすめたいが、他者が強制したり裁定することではないという分別が必要だ、ということ。

③現在の日本の動物愛護の形は、他者の飼い方や結果をバッシングして、動物を物のように調整していく方向に流れている点が見えるが、それらの前に、絶対的にしていかなくてはならないことがあるはずだ。それは、捨てないことをひたむきに訴えていく、ということ。


「それはやってきた、今もやっている」と行政も愛護団体も言われるでしょうが、それでも捨てる人が跡を絶たず、捨てて当然と思う人が山のようにいるのです。それはやはり、行政の力や活動が足りない、あるいは活動の方向を誤ったいうことではないでしょうか。

かって人種差別や病気への偏見を打破するために、志を高くもった人が、じかに人々の前に立ち人々の心に訴え、多くの偏見を取り除いたように、一度でも、各地域に訴えてまわりましたか? 一度でも、全国規模で不妊手術の補助を出したことがありますか?
税金を犬猫の手術には使えないのなら、犬の登録料を、一回でいいから全国の希望者の手術費用に回すことはできませんか?

こうした英断は、一度も下されませんでしたよね。チラシの文章が洗練され、民間の推進員が入り、ホームページなどが出来ただけではありませんか? 
何事も、出来ないと決めていたら出来ることもできません。まずは決めて、それにそってすすむ・・・英断とはこういうことでしょう。一回だけでいい、国民の多くから批判を受ける覚悟で、人間に無私に心を開いてくれる友を救うために、見かけ倒しでない活動をする英断を下してください。


私は組織を作ったり、政治性の必要な活動をする力や気持ちをもちません。本当に愚かしいほどにただうちに暮らすことになった動物たちの世話を、うろうろとしこしことぐだぐだとしているだけです。経済の破たんを招き、家族は崩壊し、社会に立つに十分な力を持つ夫を巻き込み、ついには死なせてしまい悔恨の極みにいても、それでも、ある朝起きると、玄関前においていかれ、不安におののいている小さな猫を見捨てることができません。

それは、私が悪いのでしょうか?
やがて遠くない将来、私は飢えて死ぬ野良猫のように誰にも知られないまま死ぬでしょう。もちろんそうであっても、私が誰かを恨むことなどありません。

でも、逝く前にひとつ問いたい。経済大国といわれる国になった(未来は知りませんが)この国が、人間が保護していかなくては生きられないようにした犬、猫、そして私のように命がけで守ろうとしてきた者たちに、ただの一度も、本気で心を開いてむきあわないで、どこに真の繁栄と共生が望めるのでしょうか。