動物愛護月間にちなみ、町の広報誌にペットに関する啓蒙記事が

どこの市町村にも定期的に広報誌が配布されていると思うが、私の住む町にも、「Yachiyo」という広報誌が秘書課から発行されており、町民に必要な情報やイベントの取材記事や注意事項などが掲載されている。

このたびYachiyo9月号が配布されてきた。9月は動物愛護月間の月であることから、メイン記事は「ペットは家族の一員です」という見出しで、犬や猫の飼い方、飼い主のマナーなどの内容である。
以前はこうしたペットに関するものは、県の指導センターが作成した既成のチラシが入っているだけで、その記事は心がこもっているとは感じないおざなりなものであった。その内容のいいかげんさに、何度か町や県に「もう少し内容の吟味をしたものになりませんか。これでは誰の胸にも届かない」と電話をしたものだ。


今回広報誌のメイン記事になっているものを読んで、「ずいぶん心がこもって、無責任な飼い主にしっかり呼びかけようという意識が感じられるようになったなぁ」と感無量の思いすらした。


ただ一点、失望を感じた。それは、「猫は室内で飼いましょう」という項目があることだ。そして、人の意識にもっとも重要な、生き物に対する慈愛心の啓蒙につながる項目がなかったということだ。
これは、動物好きなものが、自分の動物が好きという思いを満たすために主張していることではない。
そもそも、犬や猫との共生ということは、犬や猫の習性を認める、ということが最重要点であり、それはそのまま慈愛心につながることで、乱暴な言い方かもしれないが、人間がそれぞれ慈愛心があれば、飼い方のルールなど作らなくてもいいぐらいである。慈しむ気持ちがあれば、自然にやるべき最小限度のことぐらいは誰に教えられなくてもわかるものだからである。

ちょっと余談になるが、共生ということは、人間に対しても、どこの国の人とも共生することが大事など、常識となっている。
だが、言うは簡単だが、現実はなかなかそうはいかない。頭では、共生とは、自分と異なる習慣、習性、思想、文化などを理解しよう、認めよう、受け入れようとすることからはじまる、とわかっていても、自分たちを上において、他者に何かを与え、仲間にしてあげる、優しくしてあげる、という視線を共生と思いこんでしまっていることすらある。


ペットの問題に戻るが、ペットとの共生、ということは、人間さまさまがまずあって、それら人間さまさまが100%都合よければいい、を前提とした共生になってないだろうか。
・・・・・とこのように言うと、「人間が管理をするのだから人間の都合に合わせて考えるのが当然だろう、まず人間の幸せが大事なのだ」と反論をされることがあるが、私はその反論に問いたい。
「人間が自然や生き物を管理する、ということは反対しないが、その管理をするという意識の質と、方法を今一度、このままでいいのか、を考えてほしいのです。どうですか?」と。

たとえば犬に限定して考えると、放し飼いが普通だった時代から、現在は、人間の安全な暮らしを考えて、犬は繋いで飼う、大型犬は檻に入れるなど、管理をする法律ができている。これらは、必要な最善の管理であろうと思う。
だが、その後、さまざまに出てくる犬や猫に関わる管理方法の事案は、全て正しく必要なものばかりだろうか?
ここにこれまで目にした事案をいくつか出して、それらを検討する見識は私にはないので控えるが、ときどき、「これは犬や猫の愛護精神や共生意識とは違うただのファシズムじゃないの?」と思うものもある。

話を広げては何を言いたいのかわからぬようになってしまうので、「猫は室内で飼いましょう」と、慈愛心の啓蒙に戻るが、「猫を室内で飼う」と決めるのは、私はこれはファシズムの領域に入り、人の慈愛心を貧しくするものだと、断言する。
人間は心深い人もいるが、自分の損得勘定のこと以外についてはただの烏合の衆でしかない人が殆どの今の社会に、「猫は室内に」など町や県や国が決めてしまったら、まさにファシズムの道を作ることになるだろう。「あ、猫だ、追っ払おう、追っ払っていいのだ、国のお墨付きだから」となるのだ。これは私が経験したことだ。放されている犬を、飼い主がわかっていながら毒殺した人、洪水の川に捨てた人を私は知っている。この時、我が家の犬ではなかったが、知ってからその人に「ひどいじゃないですか!」と抗議をしたら、「指導センターや愛護ナントカやってる人のお墨付きだよ」と言われたのだ。指導センターや愛護活動をしている人がそんなことを言うはずはないので、多分、言葉を自分に都合のいいように解釈した結果だろうと思い、動物行政や愛護活動団体から出ているチラシなどの内容の不備をつくづく思い知ったのだった。

あなたは、
人間が捨てられ、家がなく飢えと寂しさに苦しみながら彷徨っている猫や犬を見て、「あ、外に自由にしている猫や犬がいる。排除しなくては」と感じる人間の多い社会と、「かわいそうに、なんとか安住させてやりたい」と思う人のいる社会と、どちらを求めますか? 

猫や犬、ペットを、必要以上に呪縛して、100%人間だけが快適になればいい、という取り決めをして飼うのが共生ですか?
あなたの癖や個性をあなたの家族、友人たちが受け入れてくれてるように、猫や犬の習性、鳴き声や糞を我慢する共生を考えることはできませんか? もちろん、全てにほどほどはありますから、目にあまることは、なんとかしたいと思うことは当然と思いますが、その場合も、悪として見るのではなく、やれやれぐらいの心持で犬や猫を見れませんか?


なんたって、犬や猫は、人間のこども、お年寄り以上の守る必要のある弱い立場で生きていくのです。
彼らの習性を許す気持ちを自分のなかにおこしませんか。


そして、捨てる人に言いましょう。
捨ててはいけないんだよ。捨てるのなら、今生まれている猫や犬は貰い手探しをして、その後、不妊手術をするといいよ。一度手術をしたら、もう子犬や子猫は生まれない。捨てなくていい。絶対、その方が、自分の心も安らぐよ、と。


動物行政に
不妊手術の管理も個人的には残酷でかわいそうに思いますが、この管理をすれば、他の管理はあれもこれもそれもと管理がらめにしなくてもよくなりますよ。
この不妊手術の管理に、町や県や国が、手術費用の補助を徹底させればいいと思います。それを思いきってすれば、日本のペット事情はおおはばによくなるでしょう。今のように人間に巣くっている排除精神も少しはおおらかになると思います。このことは人間にとってもっとも大事なことではないでしょうか。
※このように主張すると、税金を不妊手術に使うのは許さない、という人がいます。そこで思うのですが、犬の登録料を使えばいいのです。登録料は使い道は決まっているようですが、そこは検討して可能にできないでしょうか。たとえば、一年間だけでも手術費用に徹底するなど。