釈迦 イエス

昨日、ある本をさがしに図書館に行ったのだが結局めざす本はなくて、釈迦やイエスにまつわることを書かれた立松和平さんやひろさちやさん、辺見庸さんのエッセイなど数冊を借りてきた。


釈迦やイエス親鸞などの本は求めて読むが、でも、たいていは作者自身が満たされるよに書いてある釈迦やイエス親鸞なのですね。なかなか、釈迦、イエス親鸞はこのように生きた人に違いない、とその人そのものを感じる本には出合わない。当然といえば当然だろう。どんな深い人間性と才能と洞察性をもった人であっても、”自分”を書くに過ぎないのが真実だろう。

むしろ、誰からも相手にされずただの石ころかゴミのように見られて生きている名もなきどこかの誰かこそが、釈迦やイエス親鸞そのものにあっておられるのかもしれない。悲しいけど、人間の殆どはそういう人を一顧だにしない。


近所の人が捨てられていた子犬を哀れにおもって面倒見ておられたそうだが、よその誰かが持ち去って捨ててしまったようだ。
捨てられ不安でいたところを拾われ、やっと安心して子犬らしくやんちゃになっていたのに、それがうるさいとよその人間が飼い主に黙って捨ててしまう。
こんなむごたらしい心根の人間のなんと多いことだろう。
真の聖人が今の世に現われるわけはない。もし釈迦やイエス親鸞が再びこの世に姿を出されたとしても、みんなでよってたかった石を投げ、汚名をかぶせ、虫のようにはわせ、踏みつぶしてしまうだろう。
誰も、真の聖人そのものを書きあらわせるわけはないのだ。