龍馬伝「寺田屋騒動]

遅ればせながら「寺田屋騒動」の感想を。
土佐勤王党の若者たちが消えて後では、今回の「寺田屋騒動」がもっともひきつけられた。龍馬(福山雅治)の生の苦痛、苦悩を目の当たりにしたからである。刀で切られた苦痛という意味ではなく、自分の信じるものにむかって命がけで突き進む人間としての苦痛、苦悩という意味である。

これまで龍馬は重厚な完成された人間としては描かれず、そこにひきつけられてきたのだが、ただどこか現実のがない常に風のような存在であったことが胸の腑におちなくなっていた。
エスをはじめ日本の聖人たちでさえ、人間として凄絶な苦痛を強いられている。真実の人間はそういうものだ。決して風のように生き抜けるわけはないのだ。そういう意味で、これまでのあくまで爽やかな龍馬は人物としての大きさにはならないという不満があった。

今回、切られた苦痛の表現を通して、受けるべき厳然とした苦痛に耐える人間龍馬を見たと思った。
そしてお龍(真木よう子)のやっと目覚めて開いた月下美人のような存在感には圧倒された。あの龍馬を救いたい一心で街中を駆け抜ける美しき雄姿には感動した。