別ブログに2010年8月25日に書いた記事の転載=自分のくやしい気持や、認めてほしい気持や、他の人に勝ちたい気持を

別ブログに書いて現在は削除した記事「自分のくやしい気持や、認めてほしい気持や、他の人に勝ちたい気持を」が気になり、ここに転載しておくことにした。

ときどき寄らせてもらう「まれびと」http://www.geocities.jp/marebit/TOP.htmlというサイトに伺って、いつもよりゆっくりと文章を拝見した。泣きつかれたあと森の木陰でぼんやりしていたら、冷たくて美味しいしぼりたてのオレンジジュースを黙って差し出されて、それを黙ってごちそうになったような心地になり、私は自分がいつも日照りの岩の道を選び選びしていると思っているが、そう思うのは己の薄っぺらな度量を飾ろうとしている行為で、結局は自分の偏狭なエゴが自分を生き難くさせているだけなんだなぁと思った。



まれびとさんのリンクに、「山梨のまれびとな絵描きさん」と紹介されてるブログhttp://www2.journey-k.com/~enami/があったので、そちらにも寄らせていただいた。掲示板にその画家さんのこんな書き込みがあった。

(略)
美術の好きな人だけが来ているはずの造形大学でも、
そうじゃない人もいるんです。
自分のくやしい気持や、認めてほしい気持や、他の人に勝ちたい気持を
美術で実現しようと思っている人たちです。
そういう人は、絵を描いていてもあまり楽しくないので、まわりに
つらい気持を発散しています。気の毒だとは思うんですが。
まわりにも本人にも。
(略)



「おー、まさに私はこうだなぁ」としみじみ思った。

くやしい気持ちや勝ちたい気持ちはちょっと違うが・・・・・私は童話も児童文学も、認めてほしい気持に胸も頭もいっぱいにして書いてきた。

私の認めてほしい気持ちは、評価を受けたいという認めてほしいではなく、わたしはこういうにんげんで、わたしもいっしょうけんめいいきているってことをわかってもらいたいのだった。




私は生まれてまもなく戦争の影響で母親を亡くし、祖母や伯父夫婦に育てられたのだが、四歳のときに戦地から父親が帰還し、後父親と暮らした。

記憶のなかで、私は父親からほめられたことが一度もなかった。父はいつも私を見はり、友達とけんかをしないか、みっともなく泣かないか、人から後ろ指をさされるいじめっ子になっていないかと、ずううううっとその視線でいた。

おかげで私は、父がいつも「いいお嬢さんに育てられて・・・」とほめられる娘になった。(なってあげた)

でも私は誰からも自分であることをみとめてもらっていないさびしさに8歳の頃にはもう毎日死にたい、生きていたくない、という思いに窒息しそうになっていた。



それでも我慢強い私は表向きは普通に成人していった。保育学校を出て幼稚園に勤めた四年間、私は真実こどもたちを慈しみ、保護者の殆どから信頼を受けた。そうしてテレビ番組で幼児教育について大学の先生と語ったりもするようになり、その時の担当のディレクターだった夫と結婚し家庭にはいった。

誰の目にも私は普通であった。料理も子育ても友人付き合いも普通にしていた。



だが、私が普通でないことがわかる日がきた。
あの春の日、桜が咲き染まったあの公園で聴いた、あの声。

「ママー、わたしをみつけてー、はやくきてー、さびしいよー、あなかすいたよー、ママー、わたしをみつけてー!」

やせ細った小さな小さな子猫だった。永遠のノラとなった子猫。
あの日から、私のたがははずれてしまった。

夫は医師の家庭で明治生まれの高学歴の母親に育てられたリベラルで穏やかな人だったが、夫の目には私は家庭的でない野育ちの至らない主婦とみえており、私は常に裁定を受けている緊張状態でいたのだ。父親の抑圧よりある意味厳しい呪縛感を耐えていた。



一匹の子猫との出会いが、懸命にしめていたたがをはずしてしまった。それから我が家に子猫や子犬が捨て続けられる暮らしになり、これが一層私を苦しめていく。もはや私は誰からもみとめてもらえる・みつけてもらえることはなくなったのだ。

この孤独感と不安感といっさいの自信が粉々になった感覚と、家族を巻き添えにし不幸にしていくことへの罪悪感は恐ろしかった。



必死で救われる灯りを見つけようとした。教会の門をたたき、児童文学の世界に入った。

「わたしをみつけてー、みつけてー、みとめてー」。



こうして高齢になった今に至っている。高齢孤児のようになった今も、「わたしをみつけてー、みつけてー」とそれだけである。




山梨のまれびとさんが書かれているように、”好きなって、楽しく”書けるようになればどんなに素晴らしいだろう♪♪♪
きっとそういう日がくる。そう信じよう♪♪♪