亡き人を案ずる私が 亡き人から案ぜられている

夫がまだ胃ろうをつけていない頃、気の向くまま車の走るままに、県内の寺を訪ねました。訪ねたといっても、ただ境内に入らせてもらい、二人で本堂の前で手を合わせただけでした。特に宗派に拘らず、真宗の寺であったり真言宗の寺であったりしました。

私はその頃から、自分たちを天空の下のホームレスだと感じていました。
この世の価値観に照らせば重要であろうもの<お金や見栄えのいい家やゆとりのある暮らしぶりや、それから名誉のようなもの>は一切残っていず、夫が明日の命もわからぬ状態で病院で苦しみ、私は介護で疲弊しきっていた時でも、どんなに断わっても断わっても置いていかれたたくさんの猫や犬たちを飢えさせないために、自分は着の身着のままその日その日を最低限の食事で生をつないでいるという状態になっていたからでした。

何より、自分たちを”ホームレス”と実感していたのは、私たちの暮らしぶりをもって、まわりから見下されているのをしんしんと感じることがたびたびあったからでした。


夫は、私のような人間が妻でなければ、ある程度の暮らしは約束されていた人でした。実際、まわりからもそうみられていたものが充分にあったのです。そういう時の暮らしは、人から過度な見下しや歪曲を受けず楽でした。
その楽な暮らしをどぶに捨てるようにしたのは私でした。
そうして夫は病に倒れ、普通の暮らしは崖下に際限もなくおちてゆく様相になったのです。
私自身は、ホームレスであることなどなんでもないことでした。
ですが、夫をホームレスにし、徹底した医療をも受けさせられなくしたことの苦は、どのような祈りをもってしても乗り越えることはできませんでした。

夫が他界する前、私はこうした苦悩に打ち倒されそうになりながら、夫を車に乗せ、さざまなところを彷徨いました。日立の海や、霞ヶ浦の波を見渡しながら、「車ごとあそこに飛び込んでいい?」と訊いたことがあります。夫は、一度目は、「ぼくはいやだ、君だけどうぞ」と答えました。この時は可笑しくなって帰ってきました。二度目は認知症も体調の悪化も大分進んでいた頃でした。「車ごと飛び込んだら死ねる。そうしていい?」と言いましたら、夫は、「いいよ」と答えました。

この時、家に帰るまでずうっと運転しながら泣きました。そして、もう二度と死のうとは言うまいと心にかたくかたく決めました。
でも、私たちはこの世をどう生きたらいいかわからないまま、天空の下、ホームレスになったんだなぁと感じ続けていました。

寒かった今年の一月のあの日、夫は、まさにホームレスというにふさわしい死にざまで旅立っていきました。


私はその後、こうして生きています。崖下に捨てられたたくさんの猫と犬たちと、もはやホームレスともいえないほどに影も形も何もない暮らしをしています。
私を支えているのは、夫や息子やその時々に思う人たちや生き物への祈りです。ごめんなさい、ごめんなさい、生きていてごめんなさい、どうしてこんな自分がまだ生きているんだろう、ごめんなさい、ごめんなさい。


夫と彷徨うにように寺参りをしていた頃に、一寺だけ、たまたま信者の方が通りかかられ、私に、「今日はお話の聴ける日なんですよ、いっしょに行きましょう」と声をかけて下さり、引かれるようについっていってしまったのですが、ひたすら死にどころを見つけられなかった自分を悔やむ思いにふけっていた今日、その寺のご住職からの通信が届き、表題の言葉が記されていたのです。