龍馬伝「侍、長次郎」

長次郎は、薩摩から軍艦と銃を買い受ける大仕事を粘り強く誠実にやってのけ、仲間からはもちろん薩長からも敬意をもたれて自信を身につけ、人間としても侍としても大きくなるのだが、軍艦の名義と使い方に長州からクレームが出、長州の言う通りにしなくてはいけなくなる。すなわち軍艦の名義は長州、自由に使えるのも長州、ということになったのだ。契約の段階では、長州の担当の了承の上で、軍艦は亀山社中が自由に使えるはずだったのだ。そうして日本を改革する活動の資金の獲得をはかるつもりだったのである。


だが長州の「金は長州が払うのだ、軍艦はほかには自由に使わせない」という強い主張の前に契約は覆り、おまけになかなか納得できない長次郎に、亀山社中の仲間は、「亀山社中は私欲をもってはいけない」と長次郎の不服がまるで私欲から出たかのような抗議をしてきたのだ。その仲間の一人の言葉、「お前はニセ侍だからな」に、長次郎の心は崩壊する。失意の彼はイギリスへの密航を試みるのだ。ところが、悪天候のために叶わぬ夢と終わる。あげく奉行所から詮索をされることとなる。この時はじめて、長次郎は自分の行動が、亀山社中を窮地に落とす結果になったことに初めて気づくのだ。


悲しみ悔い嘆く長次郎。そして、切腹という侍らしい最期を選ぶことで亀山社中と仲間を詮議の的からはずそうとするのだ。
長次郎役の大泉洋の繊細で的確な演技で、長次郎の不幸な運命が深く描き出されていた。

長次郎はもともとはまんじゅうやで侍ではない。だが日本をかえたいという思いから勝塾の門下生になり侍になるのだ。
長次郎は土佐の藩政の理不尽をほかのみんながただわぁわぁとわめいていた頃から覚醒し、人や世の中を静かに見つめていたところがあった。そして勝塾では、目覚めが早い分、必要なことへの理解が早く深く、指導者の勝麟太郎の信頼も厚く、仲間からも頼られていた。そうやって大きな仕事に成果を出せるようになっていたのだった。

大泉洋は、こうした人間の成長をふくふくと演じていた。単に人間が大人になっていくという成長ではない、知性に根付いた懐の深さを持つ英明の男性になっていった。
本当に惜しい男を亡くしたと観る者をも思わせた。

それにしても、土佐は同じ侍でも上士と下士では天と地ほども違う身分制度があって、彼らの多くはそれに苦しみ、そんな身分制度を壊してみんなが人間らしく生きられる世の中にしたいはずだったのに、やはり、侍という身分の呪縛からの解脱はなかなかできないのだと思った。

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ドラマの感想とはずれるが、差別心は制度の問題だけではなく、人間が一人残らずもっている根っこの問題であろう。現に民主主義を獲得したつもりになっている今の世からも、差別はなくなっていない。他者から差別を受けやすい素因を持つ人は、ことあるごとに、「差別を受けた」と言うところがあるが、実はその人こそ他への差別心でいっぱいのこともある。また差別心を見せない人が、ただその人が全てに満たされているからの尊大さであるだけのこともある。・・・だから人間はだめだというのではない。こうした人間個人個人の根っこを知りながら、政策や改革とというものは成り立たせていくのだろうなぁ、と言いたかっただけだ。