今朝の一通のメール

みんなに朝ご飯を配って、やれやれとパソコンのチェックをする。夫が生きていた頃はあたふた忙しい時間だったが、最近は朝から晩までこうやってだらしない。ほんとうに自分の食事もとらずにだらしなくしている。
今朝もダラダラとパソコンを開いたのだが、ブログのプロフィール欄やホームページの中に公開しているyahooメールに見知らぬハンドルネームの方から、一通のメールが届いていた。

「訃報の最初の記事を削除したんですね。なぜですか。胸に突き刺さってとれないのに元がなくなって・・・」とあった。
詰問や非難の色合いのものではなかった。共感とか反発というものでもなかった。本当に訊きたい、というものであった。・・・と感じた私は返信を書かなくてはと、黙りこくって考えている。


消したのは・・・・・夫が他界した後、山梨の山中でたくさんの猫と暮らしながら猫の絵を描いて暮らしているかじゅこ松島さんという画家がこう私に言われた。「マオさん、死んだらなにもかもみんなわかるのよ。それが仏になるということなのよ」と。
そのことを思い、私は自分が死んでなにもかもがわかるまで待とう、と思ったからだった。

なにもかも・・・生まれて以後ずうううううううううううううっと寂しかった意味もわかるのかな。

このごろ、どうも心も頭も脱水症状をきたしちゃってつらい。

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やっぱりもうひとつの理由を書いておこうと。こちらのほうが気持ち的には大きい。
訃報の記事にいくつかのリンクがあって、ひとつ辿ってみたブログにこんな意味のことが静かに書いてあった。

ご自分のお母さんが心に苦しみをもたれているのを、私が訃報として書いていた作家から救われたと。
ブログの主は苦しんでおられた方の息子さんのようであった。
息子さんは、お母さんのために、亡くなった方に万感の思いをこめてを礼をされていた。


このブログを拝見しているうちに涙がぼうぼうと流れた。
自分が死ぬ日まで待とう。あのような覚えのない罪を課せられるこの世の責め苦をなぜこの作家を通して受けなければならなかったのか、その日にわかるのならその日を待とう、と。

もしかしたら、生きてるうちに、そんなことはもう知らなくてもいいんだ、と思える、そんな日が来るだろうか。
そうなって終わりの日を迎えられたらどんなに幸せだろう。