過ぎ行こうとしている2010年の1月

2010年の1月が過ぎていこうとしている。夫を狡猾に拉致してそのまま永遠に消えていくつもりだ。1月を行かせてはいけない。拉致されたものを取り戻すことができなくなる。

こんな焦りめいた気持ちでいる一方で、ある旅をしたい、という気持ちがおきてきている。
その旅は、何年も前の殺人を犯した少年を訪ねることだ。事件のことも犯人の少年のことも報道でしか知らないが、行為は残虐極まりなかったが少年は、正しい優しい心と叡智につながる知性をもっていたにも関わらず、己を失ってしまった、と私は感受してならなかった。村という連帯体系のなかで、個々の魂に優先する群意識が、二人の若者の命と未来を奪った、とも思えていた。

罪を社会のせいにしてはならない、結局は自分が弱いのだ、悪なのだ、という定説は、多くの犯罪にあてはまると思うが、場合によってそう言い切るのは、結局は個々の魂に優先する群意識と同じところから出ていると思っている。そう、群れないと自分を保てないなかの洞察性でしかない。群れの排除意識の底知れぬ罪深さを知る者は、決して、『罪を社会のせいにしてはならない、結局は自分が弱いのだ、悪なのだ』などという自分が安心できる”正論”に落ち着いていられるはずがない。


私はずううううっと前から、あの少年に会いに行かねば、と思い続けていたのだ。彼はすでに独房で自ら命を絶ったのだが、事件の村に行けば会えるはずだ、と。・・・夫を介護するなかでいつのまにか忘れていた。


<※少年と書いたが実年齢は成人であった>