悲しみのニャンタ

夫が永眠した10日、ここ三年ほど(もっとだったか)うちの周りにきていたブチコが事故で死んだ。夫の死を嘆きながらも息子が到着するまで葬儀のことなどで私が対応しなければならなかった。そうした暗くなっていた時刻に車で帰宅する道に、無残な姿のブチコが横たわっていたのだった。

私は驚き悲しみつつ、急いでブチコの身体を森の茂みに横たえたのだった。飼い主さんがいる猫だった。外に出ていた近所の方にブチコの死を飼い主さんに連絡してほしいと頼んだが、そうしてくださったのかどうか・・・その時、その人は「別に知らせても引き取らないよ」と言われ私もブチコに関わるこれまでの経緯があったことを思い返しそう感じた。ブチコは私が森に埋葬した。
夫が車椅子で外にでて日当たりのいいところにいると、膝にちょこんと乗ってくる猫であった。

後に考えると、ブチコの身体がまだ温かかったことに思い至った。それで、ブチコは、いつもならまだ明るいうちに夕ご飯を森の食卓にもってくる私が暗くなっても帰らないので、死んでいた道の傍の塀に乗って、私の車が現れるのをじいっと待っていたのではないか、と思うようになった。ブチコはそういう猫だったのだ。
そして広い通りから家に入る道に入った私の車をみてとったのだと思う。ブチコは塀の上から車が近づくのを待っていて、ある程度近づいた時、道に飛びおり、道を横切って森の方に入ろうとしたのだと思う。ブチコは私の車を見つめていて、その前に別の車がいたことに気づかず、そして塀から飛び降りた瞬間はねられた、と思う。

こう思うことは辛いことだったが私のこの推測は間違ってないだろう。ブチコは温かかった。夫も私が駆けつけたときそうであった。


ニャンタだが、ニャンタはブチコと同じ頃に姿をあらわすようになった。堂々のドラ猫である。昨年の冬は、二匹とも我が家の二階に作った電気毛布の寝床で夜を過ごし、朝になり私がごはんを運ぶと食べて外に出ていった。
今年はブチコは夜は自分の家に帰っているようだった。ニャンタだけが毎晩二階にやってきていた。

ブチコが死んで、ニャンタは毎日毎日大声で鳴きながら森をうろつきブチコを捜していた。ついにもうブチコはいないと悟った日から、ぷっつりと姿が消えた。

ニャンタはブチコがいなくなったことを悲しんで悲しんで姿を消したのだ。私にはわかる。
私は毎夕、ニャンタのために二階の寝床を温め、缶詰めを入れたごはんを置いておく。ブチコとの別れを耐えたあと、また堂々とドラ猫の生をまっとうしてほしいと祈りながら。