悔恨という葛藤 寂しさ

さまざまな悔恨が繰り返し寄せてくる。そのたびに痛みのような寒気に打ち震える。


「またそれなりに元気にお正月を迎えられるので嬉しいね」「うん」というような会話を交わして夫は30日の夜ベッドに横になった。その数時間後に一回目の吐血があったのだった。


激しい悔恨はここからはじまる。
一回目の吐血で救急車を呼ぶべきだった。三回目の吐血まで呼ばなかったのは、一回目は量がそれほどではなかったことと、夫自身がケロリとして「大丈夫だよ」と言っていたことから、夜が明けるまで様子をみようと思ったのだ。
二回目の吐血は明け方であった。この時、かかりつけの町の病院に電話をした。事態を話し、「すぐに診ていただくか、あるいは救急車を呼んで総合病院に行ったほうがいいか指示をしてください」と言うと、電話に出られた看護士さんはいかにもベテランの方らしい落ち着きをもって、「胃に少しづつたまったものが、吐血という形ででることはあるんです。鮮血でなければ今どこかが出血しているということではないので、そんなに慌てなくて大丈夫ですよ。8時半には先生がこられるようにしておきますから、8時半に来てください」ということであった。

それでとても安心した。よくあることなら治療も的確にしていただけるだろう、指示通り8時半までに行こう、と思い、夫にもそう話すと、夫はわかってやはり安心したようにうなづいたのだった。かかりつけの病院の指示に従おうと思ったのは、夫のこれまでの病歴をわかってもらっていることと胃ろうの手術をした病院であるから経緯の説明をしなくても、即治療にかかってもらえるからだ。

だが、三回目の吐血はあまりに激しかった。8時半まで待てない、とすぐに119番に電話をかけ、その後、病院に、「8時半まで待てない事態になったので、救急車を呼びました、と連絡をした。
救急車がきて、どこの病院に行きたいか、と訊かれた時、「このような事態になった時、どこの病院がいいのか把握していない。だからかかりつけに行くのが一番いいと思うので、Y病院に受け入れてくれるかどうか電話してみてください。二回目の吐血の後、Y病院に連絡して8時半には先生が来られると約束してもらっているのですが、まだ時間が早いので、すぐに見てもらえるかどうかわからない。その場合はどこか総合病院に運んでくれませんか」と言った。
救急隊員はY病院に連絡をいれ、先生がすぐにきてくださることがわかり、もう迷わずそこに行ったのだった。

まだ空が薄暗かったような気がする。先生はすぐに診てくださった。この時の安堵は大きかったのだが、治療の効果ははかばかしくなく、夫は微熱(平熱が低い本人には高熱であったろうと思う)と、身体が常にじくじくじくじくと汗の出る症状がつづいていた。吐血の際、血液を飲み込んだとみられる肺炎も起こしていた。胸水もたまっているということであった。そして息をひきとった後の用紙で知ったのだが感染症も起こしていた。
ただ呼吸不全を起こしていないということで、先生は「また家に帰れる可能性は大きい」と明言されていた。
だが、結局10日で息をひきとり、本当のところ死因ははっきりしないようであった。
この日、連休の間で主治医の院長先生は他県に出かけておられ、最後に診てくださり死亡を確認されたのは、夫をはじめて診る若い当番医師だった。

私は病室から、医学博士である夫の兄に電話をし、死因を訊いてほしいと受話器を看護士にわたした。自分で訊いても、理解ができないかもしれない、兄なら正しく把握してくれると思ったのだった。
この時点で、正確な死因はわからない、という会話であった。兄との会話が終わったのち、当番医師は、悲嘆にくれる私に言った。「死因を調べるには解剖しかないです。がご主人の身体を切ることになりますからおすすめしない・・・・・」と言われた。
『解剖されたら困るのか?』という思いが打ちひしがれている脳の片隅によぎったが、それはすぐに打ち消した。『よく尽くしてくださった』という感謝の思いの方が深かったのだ。


こうやって夫は旅立っていったのだが、日を追うにつれて、悔恨という葛藤が私の脳髄や心を蝕んでくる感覚がおこり苦しい。悲しい。寂しい。そして虚しい。虚しい。


悔恨は日頃の自分の介護のありかたに対することが一番比重をしめているが、あれほど感謝していた病院に対して、『総合病院にいくべきだったのではないか、強引に転院をお願いすべきだったのではなかったか』、『惰性の治療で終わらせてしまったのではないか、私はそばにいながら何もしなかった』など、そしてそれらは全部自分の怠惰にある、という悔やみである。こう思うことは、自分がまるで万能であると思っているに等しい破廉恥な思い上がりであるが、それでも悔やまれて悔やまれてならないのだ。

夫は二回目の吐血までは冷静であった。それが三回目の大量の吐血ののち、激しく怯え、みるみる蒼白になり、身体が脱力した。吐血によるショック性失神であると私にもわかった。そのさまは、危機に瀕した赤子のようで、私は「大丈夫だから、大丈夫だから」と叫びながら抱きしめていた。


そして、10日の朝、私は夫の微熱がつづいていることの心配と猫のミルのことをこのブログに書いて、いつものように病院に行こうとした。ところが部屋を出るところでフラリと倒れ、慢性の疲労感がやけに重いことを感じ、『今日は午前は休もう、私が倒れちゃよくない』とさっさと休息を決めたのだった。夫に微熱がつづいていることは気になっていたが、先生も看護士さんも深刻ではなかったし、時間とともに回復していくと信じていたのだ。

横になってまもなく携帯電話がなった。見ると病院からである。咄嗟に「あ!」と思った。案の定、「ご主人の容態が急変しました」と。
病室に駆け込んだ瞬間、夫の顔は、もはや手も声も届かないところにいってしまった、私は、荒野に赤子を置き去りにし、どんなに恐怖と不安の泣き声をあげただろうその赤子を、ついに見つけることができず、いや見捨てたのだ、と知った。

最も悲しい悔恨はここにある。私は夫の直接の死因は、肺炎や感染症を患うなかに出た、”たんのつまりによる窒息”であろうと感じている。だからこそ、「いつものように病院に行っていれば・・・たんのつまりは私が防げた」。


かわいそうでかわいそうで気が狂いそうであった。病室から夫の兄に電話をしたとき、こらえようもなく泣き叫んだ。兄は電話口でしばらく私の狂乱を耐えてくれ、そして強い真摯な口調で言ってくれた。
「和恵さん、聞きなさい、弟は、職場で最初の脳梗塞をやり、10年後に重い脳出血をおこし、その数年後にまた脳梗塞をやった。この病歴のものが今まで生きてこられたのは、医師や病院の力はもちろんあるが、和恵さん、あなたの力だよ。医者の私にはそれが本当によくわかる。死んでしまって嘆きと落胆の気持ちはわかるが、自分を責めず、もっと堂々とやりとおした、という気持ちを持ちなさい。人間の生死は、神が決めるのだよ」。

私は兄のこの言葉が、先になって私の中で兄への心からの感謝とともに命になってくるのを信じる。
でもまだしばらく立ち直れないだろう。


さっき、ideさんからお花が届いた。
玄関で箱を開くと、やさしい春の香りが立ちのぼった。春になったら、また森の道や田んぼの道を車椅子で散歩をしようと毎日のように話し掛けていたその春の香りであった。床に崩れて泣いた。夫が亡くなって文字通り涙が枯れそうなほど泣いたが、この涙は、癒されていく気配があった。ideさん、ありがとうございました。
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まだ気持ちが落ち着かないなか、書きなぐってしまいました。人に会うのが苦痛で、さりとて人恋しく、誰かに受け止めてもらいたく、寂しい気持ちのまま、自分のために、31日から10日までのことを書いておきたくなったのです。