NHKドラマ「坂の上の雲」の正岡子規

たった今、天地人が終わった後、司馬遼太郎の「坂の上の雲」が放送されるという予告編をやっていた。豪華なキャストや時代風景に思わず見とれ、椅子にしっかりと腰掛けて見入ってしまった。


特に正岡子規香川照之が演じると知って、なぜか涙が出そうなほど感じ入った。
私は愛郷心に乏しい愛媛出身者で、愛媛出身の偉人や有名人をだからなんだ、としか思わない横着者でもある。
でも子供の頃から、正岡子規だけは誇りに思っていた。それは彼の才能や偉業に対して、というよりも、凄絶な苦痛のともなう病を受け入れて生き、俳句を詠み、若くして死んだ、人であるからだ。


これは小学校六年の時の担任の松浦正夫先生の影響による。
私は1942年の戦争のまっただなかで生まれ、生後まもなく、戦争の影響で実母を亡くした。後母方、父方の祖母に守られ、母方の祖父は山や田を持つとともに郵便局長を務め、父方の祖父は私が生まれた時は既に他界していたものの生前山や田畑を持ち村の治安をあずかる地位にいたので、何不自由なく育てられた(富んでいたという意味ではない。要するに戦後でも米などはあり、飢えることはなかった、という意味。貧富でいえば、村全体国全体が貧しかった時代で、そういう意味では貧しかった)が、父が戦地から戻って父と暮らすようになり一挙に不運に見舞われるようになる。
当時子供だった私は自分の運命を不運と思っていたわけではなかったが、父の狂気、あるいは社会性の育たない稚拙さというべきか、を一身に背負うことになり、その過程の中で、父が二度再婚した継母とことごとく不幸な別れ方をしたり、今でいういじめにあうなど、ある時期失語症に陥るほどであった。


こうした時期、学校の先生が必ずしも人間的であったとはいえず、私は先生によりいじめを助長される経験があった。だが、松浦正夫先生だけは違ったのである。表立って私を庇うという形ではなく、折りにつけ、「和ちゃんは、なりたいものになれる力をもっとるよ、いつもそれを信じて、つらいことがあっても出来るだけ気にせんと、好きなことをやるんだよ」と言ってくださった。
そして小学校を卒業とともに村を去って東京に行った私に、何通も何通も手紙をくださった。


この松浦先生が大変俳句が好きで、正岡子規を敬愛されていたのだ。「俳句が素晴らしいのはもちろんだが、それはそれは苦しい病気になりながらも、人間的な深いものを失わなかったんよ。すごいなぁ、えらいなぁ」というようなことを授業で言われた。これが私に強烈にしみているのだ。


私は東京の板橋区に住み、上板橋第三中学校に入学したのだが、クラブ活動を何にするかを決める時、即、「俳句部」を選んだ。そして、理由に、「正岡子規が好きだからです。正岡子規は病気に負けない心をもって、俳句を作った人です」と松浦先生の受け売りを一生懸命に言った。
余談だが、一学期間だけそこに住んで、後に世田谷区に移転したので、俳句部の授業は数えるほどしか受けなかったが、生徒が詠んだ句を並べ、生徒がそれぞれに点を入れるのに、私の田舎言葉丸出しのような俳句にも必ず何点か入るのが胸が破裂しそうなほど嬉しかったものだ。先生が、「飾りのないのが感動するね」と言われた言葉は今も記憶にある。


坂の上の雲がドラマになり、正岡子規香川照之が演じると知ったさっき、子供時代のいろいろなことを思い出しつつ、『これは絶対観なきゃ!』と思っている。本当に楽しみだ。