胃ろうにして現在どう思っているか=「社会的な死」を認めたくない

「のんびる」リポーターブログに、松尾陽子さんが、「看取り(2)―「寝たきり」と「経管栄養」が条件の老人専用アパート」という記事を書かれています。http://secondleague.net/user/012/012/2589.html
短い記事ですが、現在の高齢者の医療・介護を含んだ陰りの未来が見え胸につまりました。ぜひごらんになってください。


私は胃ろうについて体験的なコメントを書きました。
私は夫に胃ろうを造設することに長い時間なかなか受け入れられず悩みました。そして今年の3月につけたのですが、一度友人に、「随分悩んでいたけれど、結局つけてみてどう思ってるの?」と訊かれたことがあり、そういえば、あんなに抵抗していたのに、つけた後どう思っているか明かしていなかった、いつか書かなきゃと思っていました。今回の松尾さんの記事にそうしたコメントを書いたのでした。


松尾さんのブログへのコメント↓

こんにちは。私も夫の胃ろうのことで随分悩みましたので、書き込みさせてくださいね。
夫の場合は、嚥下障害で誤嚥を起こすようになり、肺炎も繰り返し、数年間の試行錯誤を経て今年の三月に胃ろうを受け入れました。それ以後も、少しでも口から食べられるようになるよう、リハビリ専門の医療大学病院に転院し、私自身もその病院に毎日通い、リハビリの方法や食べさせ方を学びました。ですが夫の場合、かなり重い認知症ということもあってか、本人の意欲や理解がなく、病院の人たちや私の励ましも伝わらず、結局主治医の先生もも担当の療法士のかたも看護士さんも、「口からというのは諦めたほうがいいかもしれない。少しでも無理をするとまた肺炎を起こす」と言われてリハビリは終わり退院しました。以後自宅介護となり、五ヶ月になります。
こうなった過程で、一番私の胸にひっかかっていることは、『嚥下障害を甘くみていた。理解が足りなかった。初期の段階で、介護者の私がしっかり認識し、調理や食べさせ方に心すべきであった』ということです。このことは悔やんでも悔やんでも悔やみきれません。辛いです。
でも、自己嫌悪におちいってばかりでは、何もすすみませんから、現在は、胃ろうの夫の”暮らし”をどのように安全に保持し、夫にいくばくかの”暮らしの充実感を感じてもらいたい”というところに焦点をあてて日々を送っています。夫がもともとはっきり意志を出さない性格ですので、何がいいのかはかりかね単なる介護者の自己満足のような焦りに陥ることがありへこむのですが、『そもそも完璧にやろうとするのが間違いだ、できるわけはないし、また完璧な介護ってなんだ? マイペースで自分も楽しみを見つけながらやっていくべぇ』とこの頃は思うことにしています。



結局、胃ろうに関しては、夫には最善であったのだと思っています。
うちの場合は、エンシュアを一日に5本、白湯を600CCにしていまして、大学病院に入院中から体重は変わらず、顔色もとてもいい、という状態を保っています。野菜や果物の汁を一日に一回注入することを相談したこともあるのですが、現在の主治医の先生は、「太りすぎるとよくないですよ」と言われますので、エンシュアと白湯以外は使っていません。
口から、せめてゼリーを一口でもと思うのですが、夫の場合はその一口が肺炎を招く可能性大と言われます。このような状態ですが、テレビや音楽を夫なりに楽しみ、映画館にいくこともあるなど、それなりの暮らしを保っています。『一緒に楽しむものを持ち、暮らしを共有する』が、今の我が家の目標(オーバーかな?)なんです。これから何らかの変化(胃ろうも含めて)を迎える方に、怖れず勇気をもって受け止めてください、必ずそれなりながら活路は開かれます、と応援したいです。(自分に対しても)
Posted by 佐々木和恵 at 2009-11-18 10:46:44

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松尾さんはラストをこのように締めておられます。

そして、アルフォンヌ・デーケン氏の講演会を聞いた時の記事にあった「社会的な死」を心に留めておいてほしいと思います。http://secondleague.net/user/012/012/1256.html#more

社会的な死(social death)
人間は、本能的に社会的な存在。入院が長引き家族の足が遠のいた時、その孤独感は計り知れない。これは社会的な死。

私はこの言葉を目にした時、『そうだ! 私が認知症の夫を抱えるようにして介護に向かってから以後、ずうっとこのことと闘っていた』と叫びそうになりました。
自分たちの現実も含めて、「私たちは”社会的な死”を当然のごとくに投げつけられてる」と感じつづけ、そのことの哀しみ、悔しさをかみ締め続け、必死に抵抗ている、という実感に思い至ったのです。

・・・とはいえ、社会、地域がそうであっても、私たちは社会的にも個的にも自分にあったように生きるよ、という心境ではありまするが。(笑)