相棒 8-5 背信の徒花

楽しみにしていた相棒であるが、夫が排泄に失敗し、後始末や就床の支度に手間取り、テレビを観始めた時にはもう半分過ぎていた。それで筋がさっぱりわからないので感想の書きようもない。でも気を取り直して、新聞の番組紹介を見ながらドラマを把握しようと思う。

<ネタばれです>


新聞の紹介に寄ると、『鑑識の米沢さん(六角精児)が鉄道DVDを見ている。右京さん(水谷豊)はそこに、5年前にビルから飛び降り自殺をした国土建設省の三島(村井克行)に似た人物が郊外の駅のホームに立つ姿を見つける。撮影日は三島の遺体が発見される前日になっている。三島はこの駅から約60キロはなれたビルの下に横たわっていたのだ。おかしい! と右京さんと神戸尊(及川光博)の捜査がはじまる』ということのようだ。


結局、一部の官僚の利権がらみの行動が基盤にあって、福祉施設の経営者(でんでん)の強欲と冷酷が、住民の味方であった三島を殺したのである。

行き所がない高齢者を金儲けに利用する経営者や施政側の人間の善顔仮面をかぶった物語は、介護サービスが始まる前から現実的にあったことだと思うものがわきでるものがある。本当に高齢者のために心血を注いで活動されている人も多いことを知りながら、それ以上に高齢者がもはや洞察力や思考力を失っていることをいいことに、自分の懐を増やすことに腐心する体質のようなものが、この事業にはつきものになっていると体感するものがあるのだ。


・・・・・ここまで書いて思い出したのだが、約二十年前の介護制度が始動する直前、求人案内には、介護事業が出す広告が多かった。私はその頃埼玉に住んでいて、うちに毎日のように捨てていかれる猫や犬の養育費を得るために、水泳のコーチをしたり、銀行に勤めたり、病院の看護士さんのための保育室を作ったりしていた。ある時、介護施設を作る準備をしている事業所が出していた求人広告に目を止め、応募した。試験は作文を書かされた。
私は介護事業に関心があったわけではなく、特に勉強もしていなかったのだが、弱い立場の人間を受け入れる事業の基本は何が大切か、というところで思うことを書いて出した。
これが経営者に認められ、なんとしても来て欲しいと言われた。だが仕事の内容が当時の私の事情に合わず、また自信もなく断った。断っても断っても電話がかかってきて困惑したほどだった。忘れた頃にも突然、「どうしてもだめですか?」と電話があった。
この時の経営者は「まさにあなたのように考える人が必要な仕事なのです。ただ働けばいいのではなく、ビジョンが必要なのです。厚遇します。ぜひ来てほしい。本当に来てほしい」と本当に必死な感じに見えた。


今夜の相棒のラスト近くを観たあと、私はこうしてあの時のことを思い出し、『あの方は今、どのような施設経営をされているだろう。みんなあの方のように純粋な熱意をもたれてのスタートをされたのだろう』と思ったりしている。でも、実際は高齢者や認知症で家族にも捨てられようとする現実と、そういう非力な立場になった人たちを食いものにする現実は確かにあるのだ。福祉という名のもとに。

私は今は認知症の夫が施設を利用する立場になっており、正直な気持ちでいえば、施設に働く個人個人には感謝の思いを多々持つが、制度のすきまのような点を見知って失望におちたりしている。
どの施設の経営者も、最初は高齢者の側に真に立った介護をしようと熱意にもえておられたはずだ。それが次第に熱意の方向や形が変化してくるのは、制度のすきまのしわよせを背負いきれなくなってのこともあるに違いない。
背信の徒花」は、施設の長の個人の犯罪を暴いたのではなく、制度のすきまへの警鐘もあるのだろう。
あらためて、新政権に、介護・医療の実状を知ることと、見直しを切に祈りたい思いもわく。


物語の内容を観ていなかったので、感想がいつもに増してとりとめなくなってしまった。

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エラソーな本音をもうひとつ。
介護の現場に欠けているのは、端的に言うと人間への理解、敬意をもつ、という人間としての厚み、深みだ。これらの人間力がおしなべて浅く薄い。だから、アジテーション的に介護の理想は語れるけれど、高齢者や介護者、個人個人への理解や尊厳というのは絵に描いたもちになっている。

私は時々、介護に従事している人の口からポロっとこぼれる言葉で、『この人たちは、要介護者やその家族を、心の底で裁定しながら見ているんだな』と寂しくなることがある。そんな人たちを頼らなきゃいけない現実を本当に心底哀しくも思う。


新政権には、介護・医療の実状を知ること、見直し、に加えて人材の育成にも本腰入れてもらいたい。とともに、報酬がそれに沿ったものになることも。これはとても重要ですね。