市橋容疑者逮捕の報に思う

英国女性英語教師を殺害して顔を整形し逃亡を続けていた市橋容疑者が逮捕されたという。そのニュースを見ながら、昨日報道されていた、市橋容疑者が勤めていた建設会社の同僚の男性の言葉が思い出されてならなかった。
その人はこう言った。
「一度あの男が切れて、同僚の胸倉をつかみけんかになりそうになったことがある。その時、自分が止めに入り、『けんかで相手が死ぬことがあるからやめとけ』と言ったら、あの男は泣いた」。


これを聞いて、私は胸がしめつけられた。『彼は殺すつもりではなかったのだろう、どんなに後悔し、こうなった人生が夢ならいいのに、夢が覚めたら元の普段どおりの生活になっていたらどんなにいいだろうと思い続けていたに違いない・・・』と。『逃げることに執着するのは自首する勇気がなかったのだろう、こうした絶望感というものはどんなものだろう』と。


夜になって降り始めた激しい雨音を聞きながら、想像を絶する人生を歩むことになった人間の哀しさを考え続けた。
こういう時、私はいつも自分に戻して考える。自分はたまたま誰かを殺すような場面に出合ってないだけだ、と。夫を介護する場ひとつとっても、しばしば己を失いそうな怒りややり切れなさに突き動かされることがある。それを自制自律するのは自分がエライのでも理性的なのでも正しいのでもない。たまたま何事もなく越えただけだ。本当にそう思う。


市橋容疑者が逮捕される前に、彼の両親が取材を受け入れ、記者たちに話しておられる場面が放送されていた。市橋容疑者とそっくりの容貌をされた父親が、息子が出頭して刑に服することを望んでいる、と立ち並んだ記者を見回して冷静に語っておられ、それに頷いておられる母親の姿も見えた。
どんなにお辛いだろう、ああして冷静に世間に寄った発言をしておられる胸のうちは、絶望と悲しみと息子の犯した罪を悔い責め内省の思いで混沌とされているだろう、と思いながら、胸の片隅に、『今や許されざる凶悪な犯罪人であっても、一片でいい、息子のために祈る思いにつながる言葉を出せないか』と感じてならなかった。親はこどもを売ってはならない。親もまた世間に生きていかなくてはならないといえども、どんなひどいこどもであっても、親はこどもを世間に売ってはならない。結局それは犠牲者に対する贖罪にもならず、よりこどもも自分も蝕むことになる。


だが、親なるがゆえに、殺された女性とそのご両親の悲しみ、憤り、無念、不条理の思いがよくわかり、だからこそ息子の罪を突き放すしかできなかったのだろう、とも思う。


市橋容疑者の逮捕の瞬間を目撃した人によると、彼は抵抗をいっさいしなかったという。多分彼はやっと楽になったに違いない。犠牲者と天と法のもとで、生まれたまんまの心になって裁かれ罪を償われることを祈りたい。