中川昭一さんの死 & かじゅこ松島さんからの電話 そして『私たちが出会った真なる善き人々と天に恩返しをするのはそれしかないよ』

中川昭一さんの死
例のもうろう会見の後、マスコミにバッシングの追いかけをされて自宅に帰られた時、夫人の、「よっ、日本一! 大丈夫、大丈夫!」という活力のある声が聞こえた。

その時、「中川議員はこうやってご家族が味方になり支えておられるから大丈夫だ」と思った。
でも、どんなに家族が理解し支えても、力尽きるときは尽きてしまうのだろうかと死の報道をテレビで観ながら思った。それだけ、重責の立場でおられ責任感が強くておられたのだろう。

夫人は悲しみとともに、自身を責め悔いる苦しみにおちられるのではないかと、そのことが気の毒でならない。生き残ったものは、逝ったものを穏やかに見送ることはなかなかできないだろうと思う。どんなに心を尽くして支えていても、自分の力不足や至らなさなどを思い自身を責め悔いてしまうに違いないのだ。

亡くなられた中川元議員を悼むとともに、ご遺族の方々が平安を取り戻される日がくることを心から祈ります。


■かじゅこさんからの電話
昨夜の夜中、久しぶりにかじゅこさんから電話があった。私は心身ともにひどくおちこんでいて話をすることが辛くてならず、「昼間、こちらから電話しますね」と切ってしまった。
彼女はその才能を多くの人に認められた画家であるが、東京のアトリエ兼住居にされていたアパートに次々と猫を捨てにこられ、山梨に移られた。当時、そうした事情とともに猫の絵の個展の記事が新聞に出て、私は「苦しい暮らしをされているに違いない」と気の毒でならず個展を観に行ったのだった。
その日から私たちは『”猫も犬も大きな動物も小さな生き物も自然もみんなが生きられる地球だといいね”友達』になったのだった。
やはり彼女の暮らしは大変そうで、私はしばしば応援の食料などを送った。ある数年間に及ぶ期間は、生協の配送日の毎週、食料を送った。のちに彼女は、「本当に本当にあなたの援護で私と猫たちは命をつないできたのよ。そうでなかったら生きられなかった、そのくらい大変だった」と言われた。


でもやがて私も彼女と変わらぬ暮らしになり、夫の介護も二十年になり、自分のことでせいいっぱいで、いまや彼女に何一つ送ることができなくなっている。いつも心の中で、『彼女はどうされているだろう、大丈夫だろうか』と案じていた。


そのかじゅこさんからの久しぶりの電話であったのに、私は自分の疲労や不安につぶれそうになっていて話もできなかったのだ。


■『私たちが出会った真なる善き人々と天に恩返しをするのはそれしかないよ』
そして朝になり、さきほどのことである。
私は、ある方から、人がどんなに失敗をしようと苦境におちようと、変わらぬ親身さをもって支えようとする人がいる、ことを身をもって教えられ窮状を脱した。さまざまな感情が迫ってきてしばらく泣いてしまい椅子から立てなかった。


かじゅこさんに「生きていこうね!」と電話をするつもりだ。そして、「絵を描き続けてよね。私たちが出会った真なる善き人々と天に恩返しをするのはそれしかないよ」と真なる善き人々と天に感謝をもって言おうと思う。