夫の”歩行実状”からあらためて介護の現場を感じ取る

週に二泊三日のショートスティを利用しつつ自宅介護をやっていくつもりだったが、一ヵ月半でショートスティはやめることにした。

夫がいやがるのでとこのブログで書いたが、最たる理由は最後になったショートスティから帰宅した後、夫の歩行がおぼつかなくなっていると感じたことと、思った以上に高額で暮らしがより厳しくなることにビビッタからだ。我が家は二人だけの生活を営むのに贅沢をしなければ、週に半分のショートスティをつづけても普通に生活ができるほどの年金はあるのだが、なにしろ捨てられ続ける猫や犬家族の食費が私たち二人の生活費をはるかに超えるほどかかるので、深刻な厳しい状況になっているのだ。まったく私自身の性格がどうしようもないくらいズボラなので普段はのんきに構えているだけで、実際は惨めなもんだになっている。


ところで歩行がおぼつかなくなっている、と書いたが、最後になったショートスティは事情があって四泊五日かかり、帰宅した時、足がギクシャクして本当に歩けなくなっていたのだ。夫に施設での暮らしぶりをよくよく訊ねると殆ど個室内のベッドで過ごした、らしいのだ。また施設からのショートスティ通信を読んでも、午後の三時にやっと起きていたらしいこともみてとれた。本人が夜起きていて日中うとうとするので必然的にそうなるようだった。


このことに私は躓いた。夫のような状態の利用者の『自主性を重んじる』ということはこういうことではないはずだ、と思った。
何かを要求してそれに拒否反応があった場合、自主性を重んじるとしてその拒否を尊重することは確かにあろうと思うが、夜眠らない認知症の高齢者が昼間ぐずぐずと起きるのをいやがるのでそのまま寝たきりにしておくというのは『自主性を重んじる』ことにはならない。介護者の怠慢だ。
自分で生活の基本を保てなくなっている認知症の高齢者には、実際的な病気などがない限り、朝には着替えて個室を出て食卓につき、午後は適度の昼寝をさせるが起きてそこの生活をする、という基本は崩してはいけない。この基本を過小評価していたら歩行のできる者もあっという間に寝たきりになってしまう。


そこで私はショートスティをやめることにした。以後、一日に少なくて1時間の車椅子での外の散歩をし、車のこない平らな道で車椅子からおりて歩くことを心がけるようになった。このことは以前からやっていたのだが、ショートスティをやめてから声だしとともに『必須リハビリ』として毎日やっていくことにしたのだ。
数日で足がもとに戻った。すると気分も余裕がそこはかとなく明るさになってきた。
私自身も、介護サービスに頼る気持ちがなくなって一層の覚悟ができた。


これは国や自治体の介護体制を司る人々に言いたいのだが、「いいですか、介護は、要介護者を安全に放置するシステムにしてはいけないのですよ。人手と報酬を仕事の意味と大変さに照らしてきちんと出し、要介護者の晩年を本当に尊重していく意識と介助の実際に取り組まなければならないのではありませんか。私は、今の日本の介護体制の多くが、”要介護者を安全に放置する、その結果寝たきりにさっさとなろうと知ったことか”になっている、と断言しますよ」。



とこのように言うと、必ず、「介護者(職員)は一生懸命やっている!」とヒステリックに言い立ててくる人がいますが、一生懸命やらなくていいから、意識を高く持ちましょうよ。そうすると、もうひとつ、なんに一生懸命になることが必要なのか、が見えてくるかも知れませんよ。
どこの施設でも職員の一人一人は一生懸命やっておられることはわかっていますよ。そのレベルで言い訳したり自己満足していては、ものいわぬ要介護者を崖下にただ怪我をしないよう放置しているに等しいことになるのですよ。