道を迷う

一度眠ったのだがすぐに目覚めてしまい、そのあと眠れないままに四年前に死んだ猫のモリのことを思い出し、別ブログに書いた。それをもっと傍においていたくなりここに転載した。

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人生が定まらないせいか道を迷うことが多い。
今日(29日)夫の入院先の病院から帰る途中、ふと『こっちを行ったら近道では?』と思ったのがウンのツキ。つくば市の真ん中から筑波山ではない山に入ることができるのか、というぐらいの山道を彷徨うことになった。早く帰りたい理由があったので、もお泣きたくなった。

結局、普段の道で帰れば1時間早く帰れたのに。

でも、森でごはんを待っていた猫たちはそんな焦ってる風ではなかったのでひと安心。

この頃姿を現すようになっている尾っぽの短い鯖色風の猫は、四年前に死んだモリに似ていてびっくりした。身体が鯖色風であることもそうだが、何より尾っぽの形が独特で、それが似ているのだ。・・・だが、やはりモリではないだろう。四年前に遠くの道端で死んでいたモリがモリで違いがないはずだ。

モリ 10年をありがとう!(2005年12月記)

今年の九月のことである。鯖色の猫のモリの姿が見えなくなった。

モリは、生後二ヵ月半か、あるいはもう三ヶ月になっていたかという頃、私の家の近くの森にあらわれた。冬の寒い時期であった。同じ鯖色の毛並みをしたほかの二匹と寄り添いあっていた。この三匹はきょうだいで、一緒に捨てられたのだろう。子猫のうちにつかまえることが出来たら、私は家に連れて帰り、我が家の家族にしたかった。森の冬は厳しい。まだ親の懐が恋しいだろう幼い猫には辛すぎる。


だが三匹はそろってすばしこく、近寄ると必死で逃げるのだった。その姿が哀れでならず、私は無理につかまえようするのは諦め、森の猫たちの食卓を増やして、三匹が近寄りやすいようにした。

その頃、私はすでに、森の中に猫の食卓(餌場)を作っていた。

私が1991年の冬にこの地に引っ越して来た時、何匹かの猫を見かけ、その時は近隣の家の飼い猫だと思っていた。だが、どの猫も痩せこけて、いかにも心細そうで警戒心が強く、人を寄せ付けない必死な風情をしているので、捨てられた猫だとわかった。


地元の農家の人に訊くと、やはり森は昔から猫の捨て場のようにされているということだった。そして、一年のうち何度も猫を捕獲し、よそに捨てるなどをしているということも聞かされた。それは田畑を荒らすことと、こどもを産んで猫が増えると困るからということだった。


以後、私は森の中に食卓と寝床を作ったのだ。猫たちができるだけ農家の人たちが困ると思うような行動をしないよう、行動の範囲が森が中心になるといいと考えたからだ。そうやって慣れてきたら、つかまえて動物病院に連れて行き、不妊手術を施してもらってまた森に返した。
近隣の農家のお宅に、「このあたりの野良猫は不妊手術を済ませています。庭や田畑に入るのがいけないなら、見かけた時に追ってもらえば、だんだん入らなくなります。どうか天寿を全うさせてやって下さい。」と頼んだ。
森の地主さんには、夏と暮れには、猫たちを住まわせてもらっているお礼にも行くようになった。2005年の今では、四箇所の森の地主さんのお宅にお礼に行っている。これは犬たちの散歩と、糞の始末をさせてもらうことも含んでいる。どの地主さんも、「山に猫がいることや、犬が遊んだり、糞を捨てることなど、いくらでもいいよ。」と快く理解して下さっている。


こうやって、私の家の近くの森で、それぞれが威嚇しあったり喧嘩をすることはあったが、互いに互いがそこで餌を食べることを認め合い、それなりに共生し合う形ができていたのである。人間の悪意や無知や冷酷の手が及ばない限りは・・・。


やがて三匹の鯖色の子猫は、森で、賢く逞しい猫に成長していった。その頃でもまだ私に頭をなぜさせることもしなかったが、私が近くでしげしげ姿を見ても逃げることはなくなっていたので、オスが一匹でメスが二匹とわかった。オスを『モリタロー』、二匹のメスを、『ネコ』と『モリ』と呼ぶようになった。


モリタローは、成長してまもなくいなくなった。この子は、他のオス猫と折り合いが悪いところがあったので、自ら自分の新たな場所を求めて出ていったのだと思う。モリとネコは、メスなので、子供を産ませないようにする必要があった。なかなか抱きあげるまでにはいかなかったが、私が傍にいても餌を食べられるようになっていたので、その隙をついてさっとつかみあげ、用意していたケージに素早く入れ病院に連れて行って手術をしてもらい、翌日森に戻した。


あれから十年が経った。モリとネコは、森を中心とした近辺を、悠々と生き抜いていた。私が朝と夕方、食事をもって森に行くと、森の入り口で待っていて、「待ってたニャ!」と短く声をあげ、食卓までトトトトトと私と歩をともにする。この一瞬は私にとっても至福の時刻であった。

思えば、私は、世間が重視する栄誉やお金や物などよりも、この時刻こそが大切なものであった。多くを欲しがらない生き物の無心な本能の生命と心と、自分がつながってこの世に在る、この自覚と実感は本当に私を幸せにした。


ところが、今年の九月、モリが姿を消したのだ。しばらくの間、毎日、近辺を捜して名前を呼んだ。どこかに気に入った家か場所を見つけ、充分に食べることができ、安心して眠っているのであれば、私はそれでよかった。
猫たちとの交友は私に喜びを与えてくれるが、私は生き物を自分のものにしたい感覚はなかった。彼らが平安で幸せであればよかったのだ。


だが、モリはどこにもいなかった。十年も居ついていた場所から、自分でどこかに行くとは思えなかった。私は心配でならなかった。この地域の人たちは、私が猫たちに不妊手術を施し、天寿を全うさせてほしいと頼んで回った以後も、しばしば猫たちの粛清をはかっていたのだ。さまざまな不審なことがあった。何匹もの森の子が酷い死に方をした。

私はこの地に住んで十五年間、そうする人々と闘ってきた。壮絶な日々であった。と言って、激しく地元の人々を攻撃したり対立したのではない。私は、何も人々に要求することも、誰かを悪し様に言うこともなく、黙々と猫たちを守ってきた。経済の破綻や家族への罪悪感と闘いながらである。

その私が、近隣の人々はおろか、町そのものからどれほどの誹謗中傷を受けたか。何も事情を知ろうともせず、己と異なる生き方をする私の奇異な形を面白半分に、真実と異なる話をデッチアゲル人がどれほどいたか。・・・私の闘いは、それらの全てを『耐え忍んだ』闘いであり、それの苦しさはかなりなものであった。


社会性の欠如している私ができる、猫たちや犬たちを守るやり方は、耐え忍ぶことしか出来なかったのだ。・・・そして、こうまでストイックになるのは、いかに猫たちが周囲の一部の人にひどい目に合わされているかを知ってしまったからである。



モリに視点を戻そう。モリが、昨日(12/6)、三ヶ月ぶりに森に戻った。

この日の昼近く、夫をディに送るために、いつもの道を車で走っていた。田んぼ道から国道に出て、鬼怒川という大きな川にかかった橋を渡る。車が途絶えることのない道だ。橋を渡ると、すぐに左に折れて、またすぐに右に折れると、夫の行くディ施設に着く。その右に折れる十字路の真ん中に、猫が一匹、横たわっていた。鯖色の猫だ。モリの毛並みと同じだと思ったがモリとは思わなかった。


モリがここに来るとしたら、モリの森から十キロも離れて、車がひっきりなしに通り、しかも歩道のない橋を渡らなければならない。(モリがこんなところで死んでるわけがないではないか。)と私は思い、チラとその猫の尻尾を見ようと視線を向けた。長い尻尾がのびていた。(あ、やっぱりモリではない。モリの尻尾は中くらいの長さで、ちょっと大きめのタワシをぶらさげているようだったから。)と内心で呟き、あとは目をそらせて横を通り過ぎた。


夫を送り届け、再び鯖色の猫の死んでいる十字路を曲がった。この時、見たくないと思いつつ、知らず知らずにその猫に視線がいき、さっき長い尻尾と思ったものは脚であったことに気がついた。そして、大きさといい毛色といい、モリに本当に似てる、と思った。私は車をUタウンして、猫のところに戻り、車から降りて、よくよくその猫を見た。


それは無残な姿であった。内臓の殆どは道にたれ、両の目玉は飛び出ていた。私は視線を動かして尻尾を捜した。めちゃくちゃに折れ曲がった脚にまぎれて、中くらいの長さの尻尾が見えた。(モリに違いない!)私は心に叫びながら、近くの電気店に飛び込んで、新聞紙とビニール袋を下さいと頼んだ。素手では全部の身体を連れて行くのは難しい姿であったのだ。


若い女性の店員さんからもらった新聞紙とビニールに、その子の全部をくるんで車に乗せ家に帰ると、すぐにモリの森に行った。


そこで、私は、その子がメスであることを確かめ、それから、尻尾をそおっとつかんでみた。(ああ、まぎれもなくモリだ・・・。)と確信した。
食卓で、私は何度も、モリの尻尾をつかんで、「ユニークな尾っぽだね、可愛いね。」と言ったものなのだ。モリは、「なんニャ、やめてニャ、フッガー。」と怒ったものだった。


タワシのような尻尾の手触りは、モリそのものだった。モリがあそこで死んでいたということは、モリはわなにかけられ、砂沼という沼のそばの公園に捨てられたに違いなかった。


私はモリの尻尾を、生きていた時のようにさすり、「モリ、お帰り!」と言った。「砂沼から、あの角まで来るのに、三ヶ月もかかったんだね。方向は正しかったよ。あの近くの橋を渡ることができたら、あとは田んぼ道を通って、お前ならきっと生きて帰れた。偉かった、偉かったねぇ。」とも言った。声が震えてきた。が、唇をかみしめて泣くのを堪えた。それから、モリがお気に入りだった場所にモリの身体を埋め、大きな木々をひろって墓標にした。


家に帰り、我慢できず、堰をきったように大声で泣いた。怒りも恨みも憎悪も起こらなかった。ただ、モリが可哀想で可哀想で、この世が寂しくて寂しくて寂しくてならなかった。

(モリがこんな姿にされる、いったいモリが何をした! 私がこんなに苦しめられる、いったい私が何をした!)やっぱり怒りがあったのかも知れない。



第一の森の食卓で=木の上のハンベェとモリ=威嚇しあいながらも猫たちは互いを認め合っていた。