歎異抄 第六条

古河市の勝願寺のご住職からいただいた親鸞仏教センターが訳・解説の「歎異抄」<現代語 いま、親鸞に聞く>を読んでいると、時間も自分のいるところも忘れる感覚におちいることがある。


第六条の入り口に、このように書いてある。

親鸞は弟子を一人ももたず」と語られます。
結局、
よきひとの仏弟子と自覚した人間が、
結果的に師匠として仰がれることになるのでしょう。
逆に、
指導者と自認する人間は魔性をもちます。
親鸞はその魔性の毒を生涯見つめていました。


私のような、稚拙な人間が言ってはなんですが、ここを読んだ時、しばし全てを忘れました。ここでも親鸞のこの世のものとは思えぬ厳しさを受けました。


指導者と自認する人間は魔性をもちます。親鸞はその魔性の毒を生涯見つめていました。の表現は俗なようですがそうではないのですね。
私が仏教関係に関する書物などを読んだり、人の言葉を聞いて、一見真理のようでその俗性にがっくりするのは、例えば、苦しみの根源は、己のエゴ(我執、他との競争心、金銭欲などなど)によるものとしてくくってしまうことです。
私は、このくくりを示して真理を述べているかに見えると、その人の程度はこんなものかと残念に思うのです。


親鸞にその視線がないのですね。最愛の存在のものに対する痛みであったとしても、いうなればエゴというものであるのかもしれないのですが、今、そこで、悲しみに苦しんでいるものに対して、「苦しみは我執にある」という真理がどこにあるでしょう。
親鸞という人は、人それぞれの苦しみを洞察され、そこには、エゴだというひとくくりにする世俗の、それこそ自己中心性はなかったでしょう。イエスもそうであったのではないか、と思います。


親鸞は自己の慈悲では何も救えない、自分も救えないが、阿弥陀の慈悲は全てを救う、と言われたといいますが、阿弥陀の慈悲に導くのに、「あなたの苦しみはエゴから生まれている」とは言われなかったはずです。これこそが、この言葉を発する人に留まったものであるからです。


おそらく親鸞聖人は、最愛の存在のための痛みや、自分のあやまちなどに苦しむ人はもちろん、物欲や競争心の故に苦しむ人がいたとしても、その苦しみそのものを”知られた”でしょう。


歎異抄から受けたこの体感は、今後自分を強く(優しく)してくれる気がします。今は夢の中ですが・・・。