幻視

夫の熱や呼吸困難の症状は治まり、顔色も回復し見るからに状態はよくなってほっとしている。
だが今回、幻視の症状が出るようになった。今日の朝行った時も、自分が幼い頃の記憶の中にいて、もうとっくに亡くなっている父親や親戚や知り合いの方のことを話す。また窓に何かが来ていると言ったり、天井に何か書いたものが見えるらしく、そちらを見ながらそれを読み上げる。


幻視はストレスなどで意識レベルが低下すると出ると一般的に言われているようだが、入院前、歩行が出来なくて人に頼んだり、検査で動かない身体を動かされたり、心的に疲労をしただろうと思えるから、そうした重圧感が引き金になったのかもしれない。
だがこれらは何でもないように受け止めてさりげなく流していくのがいいだろうと思う。
それで、父親がなんでここにいないのだ、と訊いた時も、「お父さんはお仕事が忙しいのでしょう」と答え、私の知らない名前の人のことを話す時は、「そうなの、それはよかったね」とか、「○○さんも忙しいのよ、きっと。忙しいときはみんなそうでしょ」と何でもないことのように応えていく。
それがいいのかどうかはわからないが、特に興奮することもなく納得した風に頷いている。


救いは、今の病院の看護師さんに対して緊張したような怯えたような様子はないことだ。みなさんが、何か処置をされる時は、穏やかな口調でなにかと話しかけて下さり、夫もごく通常の応え方をしていることだ。
前の入院先では何か支配的な雰囲気があって、こうしてああしてと言う時も怒鳴っておられるように聞こえ、夫が怯えた風を見せるのが痛々しくてならなかった。


<あれはなんだったのだろう? と今もぞっとする感覚で思い出す。食堂に車椅子で置かれていた人が、私に必死に手を伸ばして、「助けてください、ここから出して下さい」と哀願されたことがあった。それも時を違えて二人の人からだ。一人の方は私の腕を全力でつかみ、そこについた痣がしばらくとれなかった>。


先ほど病院から帰る時、ラジオからアダモの雪が降るが流れていて、なんか切ないというか重い気持ちになってしまい、またいろいろ思い出したり考えたりしてしまった。


本来仏教では、人間の生は苦そのもの、と言われているようだが、だからこそ、それを楽にかえる生の智が必要であるのだろう。