肺がん

呼吸器科の医師の診断で、夫に「肺がんの可能性が大」と出た。この医師のすすめで、紹介状を持ってつくばの総合病院に行く。ここでは、「癌の疑いはたしかにありますが、それより食べ物が肺に入っているのではないかと、その可能性の方が大きいと思いますよ」ということであった。別の総合病院でも診てもらった。「癌だと思いますよ」。


二つの総合病院の医師の診断で共通しているのは、「気胸検査は苦痛がともなうから、現在のご主人の状態ではこのままにして、何らかの変化があればそれに対処する治療をして、とにかく苦痛を与えない方向でいくのがいいのではないか」ということであった。
私自身の思いも同じだ。それで今日現在、夫の生活はこれまでと変わりないものに落ち着いている。


私もこれまでと変わりない。だがこの数日、それなりの葛藤がさまざまあった。
一番の葛藤が、夫の気持ちである。
三つの病院で、癌の可能性が大きい、という言葉が交わされ、夫はそれを私の横で聞いていた。
認知症というのは確かに思考能力の停止もあって、本人はもう何もわからないから、と思わせる面が大きくあるが、では何もかもそうであるかというとそうではない。ある部分は健康な頃と変わらぬ知性と思考能力をきちんと保っている。
「癌」という告知に近い医師の言葉を、夫がどうとらえているか、そのことが気になった。殆どの機能が衰え、時に呼吸器系の苦痛に耐えなければならない状態になっている夫が、癌かもしれない、という思いで苦しむとしたらあまりにかわいそうだ。


だが結局、堪え性のない私は単刀直入に話した。他に方法が思い浮かばなかったのである。
「先生が、癌の可能性が大きいって言われたの聞いてたでしょ?」
「うん」
「こわい?」
「まあね」
「そうだよね、こわいよね」
「・・・・・・・・・・・」
「でも・・・どっちみち死ぬんだから。死は、病気があってもなくても、その日が来たら来るんだから。なんも気にしないで普通に生活してりゃいいのよ。そう思わない?」
「うん」
「それまで、私がずうっとついて守ってあげるよ。ひとりぽっちにはしないから」
「うん」
「そして、私もすぐ後からいくんだから。・・・癌なんて特別なことじゃないよ」
「うん、そうだな」


私の独善でしかないだろうが、こうやってきつかった数日間を通り過ぎ、私たちは普段どおりに落ち着いたのだ。