遠い花火の夕刻、「神様はいると思う?」と訊く

昨日、いつものように夫が乗った車椅子を押して歩いていると、軽トラックが止まって、「今日は花火があがるよ。あの方向にあがるから見るといいよ」と農家の方が声をかけて下さった。
お礼を言って、一度家に戻り、夫を外に待たせたまま、大急ぎでパンにジャムをつけ、桃を小口に切ってタッパに入れ、水とコップとストローをビニール袋に入れると、再びさっきの道に戻って行った。
花火を見ていると夕食が遅くなる。そこで花火を見ながら口に入れるものを準備したというわけだ。


花火は、隣の市があげるものではなく、もうひとつ先の市であがっているようで、大分遠かった。
遠い花火というもの、なんという切なさを呼ぶものだろう。
大分前に一時期、「層雲」に入り自由律俳句を書いていたことがあった。
当時見た俳句雑誌の中に、花火を詠んだものがあったなぁと思い、本棚を探したら、平松星童という人の、<遠い祭がきこえる金魚水の中で寂しい花火になる>という句が見つかった。


花火の日の夕べだが、しばらく花火を見て、それからボツボツと暗くなった道を、車椅子を押しながら家に戻ったのだが、田園を一巡りして、あとは真っ直ぐの道を歩けばいいというところまで来た時、『あ、この道は夢で見た道のようだ』と思った。

その前の日の夜、私はちょと怖い夢を見た。森の茂みに仰向けに倒れているのだ。早く起き上がろうと思うのに身体がうまく動かず、やっと起き上がって森の外の出たら、そこは、月明かりに照らされてアスファルトが白く見える道だったのだ。その道を家に向かって歩いていたのだが、月が背後から注いでいて自分の影が、前方に長く伸びているのである。ふと後ろから別の人影があるのに気がついた。その影は、私の肩のあたりまで来ていた。足音がまるでしなくて、そのことが恐怖心をそそった。
怖くてならず、どうしていいかわからないのだが、屹度して後ろを向いた。・・・ここで目覚めた。


車椅子の夫を押して、あとこの道を真っ直ぐ行けばすぐ家に着く、というこの道が、夢の道に似てると感じたのだ。ただこの日は曇り空で月が出ていなかったから、私たちの影も誰の影も見えなかったが。
歩いていると、何となく後方に人の気配を感じたりした。でも夢の中のような怖さは全くなくて、私は静かな気分だった。
そして妙に寂しいものが五感にしのんできた。
夫に、「ね、神様はいると思う?」と突然訊いた。
夫は黙っていた。要介護4の認知症の夫はいきなりそんなことを訊かれてどう思ったのだろう。
私は、もう一度訊いた。
「神様、いると思う?」
「・・・・・・いると思う」と夫は、おぼつかない発声であったが確かにそう答えた。

私はあとは黙って車椅子を押し続けた。涙が溢れてならなかった。そのことを夫に悟られたくなかったのだ。
私は、イエスを求めている。と思った。