矢玉四郎さんの仏道

「晴れときどきぶた」をはじめたくさんの素晴らしい作品を書いておられる「はれぶたさん」こと「矢玉四郎さん」のホームページhttp://homepage3.nifty.com/harebuta/ を最初に訪ねたのは、四年ぐらい前だった気がする。そこではじめて、矢玉さんが「子ども」表記は間違っていること、その根拠を強く述べていらっしゃることを知った。
論調は怒りがこもって烈しく、私は、「おっかないなぁ」と思いながらも、「これは襟を正して聴くべきことだ」と感じるものがわき、掲示板に、「私は子どもと書いてきました」と書いた。


この後、足しげくホームページに通った。矢玉四郎さんはいつも憤っておられた。私はたいてい、矢玉さんの憤りのむく側にいた。例えば、「自死」という表現。矢玉さんは「自死」の表現にひそむ欺瞞を憤っておられた。
8歳の時に死んだ継母の自らの死を、私は「自死」と書いていた。「自殺」となぞ書けるものか。かわいそうすぎる、という思いがあった。だが矢玉さんの憤りの意見を読んで、継母への悼みと追憶の思いを「自己慰撫」に堕としてはならない、と思うようになった。


こうやって、私は矢玉四郎さんに影響されてきた。
でも、矢玉四郎さんのことがわかっていたわけではなかった。掲示板に書き込みをする時、いつも緊張していたし、罵られることを怖れていた。それでいつの間にかホームページを訪ねなくなっていった。


少し前ごろから空海や般若心経に心がむくようになって、時々、その検索をするのだが、4月頃だったかに、仏教の検索に矢玉四郎さんのブログが出た。そこに般若心経をすすめる一言のある記事があって、私はしばし不思議な感慨にふけった。そのブログは、私に、濁った川底からゆらゆらと水面に立ち顕われてきた蓮の花を連想させたのだ。


私ははじめて矢玉四郎さんが怖くなくなった。この怖くなくなった、というのはくみ易しに通じるものではなく、むしろ敬意の気持ちはより高まって、自分が憤られるとしたらそれだけの理由があるからだ、と憤りや罵りを受けることを怖れなくなった、ということだ。
それと、私などが口にするのは大変おこがましいが、矢玉四郎さんほどの人をこれほど苦しめてきたこの世界はナンだろう、と思ったのだ。


矢玉さんことはれぶたさんの仏の道を書かれているブログは下のURLです。とてもわかりやすく、読んでひろびろとした気持ちになります。
http://butanomimi.cocolog-nifty.com/butanomimi/