排他心

個人と個人が話している時の言葉、あるいは何かの集まりなどでの誰かの言葉のひとことから、自分がどのように思われていたのか瞬時にわかることがある。


それは、自分が善く思われている、と感じる場合もあるが、明確にわかるのは、「善くは思われていない」ことだ。もっと踏み込んで言うと、自分への排他心だ。


この排他心というのは、積極的に「排他する」というものではなく、その場が、その人間を「無視」「認めない」であれば満足、という程度のことだ。


だが、この「程度」というものこそがクセモノなのである。
私がこのことを痛烈に実感したのは、自分が排他されようとしている、と感じたことによるものではなく、「そのことから思い知った、自分の中の他者を消極的に排他しようとする根性」を覚ったからだ。
まったく・・・ナンテコッタ、の自分の卑しさ、残酷さである。