ある若き僧の遷化

3月21日のことである。ふいに、空海がおこされた真言宗の寺にお参りしたいという気持ちが胸をついた。
そういえば、この日は、空海が亡くなられた日である。
だが寺を見つけることができなかった。
そして昨日、ネットで真言宗の寺を探していて、ある若いお坊さんのホームページに出会った。コラムのカテゴリーを開くと、真言宗密教に関わることや、生き方や、人のあり方などが、他者を裁定するものではなく淡々と書かれていた。http://www.shingon-sect.jp/index2.shtml
淡々と言っても、あたりさわりのないという意味合いはなく、思いは率直にこめられ、清清しい情熱を心底に、親しみをこめて語りかけてこられているような文章であった。このコラムは、最近の日付がなかったので、ブログもあったのでそちらを拝見した。すると、2月の日付で、「都合で実家に赴くので、3月20日までは書けない」という断り書きがあった。http://air.ap.teacup.com/shingon/
私は、『今日は23日だから、まもなく書かれるだろう』と思い、楽しみな気持ちがおきた。
でも、最後の文章の前から、『なんだか、寂しそうな、しょんぼりされている感じだなぁ・・・』と感じていた。
それでなんとなく気になり、ブログにあった、この僧が師のように思っている、と書かれてリンクされていたブログを開いた。


そこに、その僧が、19日に亡くなられた、ということが書いていった。http://sky.ap.teacup.com/baikazan/247.html
驚きのあとに、深い知り合いが亡くなったような悲しみが押し寄せてきた。一日経った今日も、涙が溢れてならない。


追悼の思いをこめて、「真言とは?密教とは?」のタイトルで書かれているコラムをここに置かせていただきます。http://www.shingon-sect.jp/column.shtml

真言とは?密教とは? 平成 16年 3月 14日
http://www.shingon-sect.jp/c0018.shtml

真言宗僧侶」=「密教僧」ということはあまり認識されていません。


私が密教の勉強をしているというと、火渡り・釜茹での類を想像してしまう人が多いのです。火渡りとか釜茹では修験者がやっている場合がほとんどです。密教僧の修行とは方法が違います。


さて、真言とは何かといいますと、仏様の言葉です。宗祖・空海は「真言は不思議なり・・」と言葉を残されています。空海は中国語や古代インドのサンスクリット語パーリ語にも精通していた人で遣唐使として中国に滞在していた時もインドの翻訳僧から「あなたは本当に日本人か」と言われていたといいます。


ですから、空海梵語で書かれている仏様の言葉(真言)を翻訳できないはずはなかったのですが、「真言には不思議な力がある」としてあえて翻訳せずに梵語のまま日本に請来して現在に至ります。


真言宗の常用教典には梵語がそのまま書いてありますし、塔婆などにも梵語が多用されます。ですから、私ども真言宗の僧侶は意訳・翻訳していないお経(真言・陀羅尼)を理屈ぬきで覚えたり読経します。


(例)ノウマクシッチリヤジビキャナンタタギャタナンアンビラジビラジマカシャキャラバジリサタサタサラテサラテイタライタライビダマニサンバンジャニタラマチシッタギリヤタランソワカ


次に、密教とは何かということですが、こうした真言や陀羅尼(だらに)を翻訳したり、手に結ぶ印や修法を顕か(あきらか)にせず、個人のレベルに応じて学んでゆく教えということで、「秘密仏教」の略ではありますが、「顕教」の対義語といえると思います。もったいないから秘密にしておくという意味ではありません。


真言宗では宇宙と一体となる瞑想修行が大切でして、宇宙やこの世の真理を正しく覚らない段階で、難しいことを学んでも、誤解したり、意味が分からなかったりと、結局、ある程度覚るまでは、秘密にされている状態と同じなのです。


では、真言密教は一部の僧侶だけのものではないかと言われそうですが、そうではありません。そういう難しいことは僧侶に任せるのです。そして普通の人は寺院に参拝して、自由に念じて拝めばよいわけです。僧侶は機長で衆生(一般の人)は乗客のようなイメージになるでしょう。機長を信頼して飛行機に乗ればよいのです。すると目的地に機長も乗客も到着するのです。こういう意味では機長も乗客も平等に同じところに行けるということです。


真言宗で大切にしているお経のひとつに般若心経があります。これは宗祖・空海も「般若心経秘鍵」という書物の中で、抜苦與楽(ばっくよらく)得道起通(とくどうきつう)=苦を抜いて楽を与え、道を得て通を起こすと書かれています。般若心経はどこでも手に入る最も日本で普及しているお経のひとつです。写経・読経は誰でも無理なくマイペースでできますから、自分でも何かしたいと考えている積極的な檀信徒さんにはお勧めです。


ちなみに、空海は自分を教祖とはしませんでした。空海の「付法伝」という書物(報告書)には、第一に、「教祖大日如来」と記されております。教祖を生きた人間や自分にしなかった空海の姿勢は珍しく貴重な教えと私は考えています。

享年38歳 心から哀悼の意を表します。