復讐するは我にあり

16日の昼間、テレビをつけてくれ、という夫に応えて電源を入れたら、柳葉敏郎主演で表題のドラマをやっていた。昔、緒方拳が連続殺人犯でその父が三国連太郎の映画を観て、その強い印象がいまだに残っているのでチャンネルを換えようかと思ったのだが、柳葉のインパクトに惹かれてついつい観てしまった。
途中からだったので全容がつかめていないが、佐木隆三原作とも昔の映画とも大分違っているように感じた。多分かなり違うのだろう。


どうもラスト近くから気に入らなかった。
主人公の連続殺人犯が、復讐するは我にあり、は聖書にある言葉で、人間のすることの免罪符だ、と死刑廃止論者の吉村(大地康雄)に言うと、吉村が、「復讐は神がやるから、人間は何も思わず自分を生きろ、という意味だ」というようなことを言うあたりから退屈になった。
原作はどのように書いてあるかわからないのだが、このドラマの作り手は、神も人間も同じ線上においている。それではこの犯人は描けない。多分、この犯人こそ、神を知っている、はずだ。


犯人が死刑執行になる朝、神父(中村梅雀)が最後の接見に来る。この時、神は犯人の前に敗北するのだが、ここの描き方も人間レベルで恐ろしさがまったくない。神が敗北するというのは恐ろしいことだ。それがわかっていない。(実際には神父が敗北した、と言うことなのだが、その場合でも、神父にとって神の敗北は絶対的にないはずだから、そこをわかっていれば違う表現になるのではないか、と感じたのだ)


このことは原作を読んでからまた考えようと思う。