宮台真司さんのブログMIYADAI.com Blog より 映画『闇の子供たち』

エントリーのタイトルは
阪本順治監督の、とんでもなく素晴らしい映画ができました。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=607

「ポスト9・11的=脱二元論的」な意味論にまつわる宙づりと、それに耐える作法を、
映画『闇の子供たち』『ヒトラーの贋札』『ハーフェズ ペルシアの詩』に見出す。
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■中学時代に衝撃を受けた批評があった。安保闘争を題材とした大島渚監督の劇映画『日本の夜と霧』(61)について、ドキュメンタリー作家(当時)の松本俊夫が徹底した批判を展開したのだった。議論は、紛糾する国会デモと後楽園の野球観戦とのカットバックに照準した。
■歴史的闘争に参加する意識的な市民。そのさなかに家族連れで野球観戦する能天気な市民。松本はこの二元論を虚構だと断じた。闘争の重要さを意識しながら貴重な休日を家族との娯楽のために使うという選択。この選択の切実さに気づかぬ鈍感な表現者には語る資格がないと。
■これを読んだのは中3の時。自分の通う麻布学園が中学高校紛争の最終局面を迎えていた。私は自分たちを重ねて松本の批評を読み、正しいと感じた。「遊んでいるのに勉強ができる男」を愛でる校風が、当時「ナンパしながら闘争する」営みを賞揚していたこともあろうか。
■さて正しさは文脈に依存する。70年代末の第1次ディスコブームとサーフィンブームの只中、私は左翼とアングラから足を洗う。時代は変わった。政治の季節から、アングラの季節を経て、戯れの季節がやってきた。アングラを続けることが自意識の痛々しさの表れになった。

■そこに「ポスト9・11」が明解に刻印された日本映画が生まれた。阪本順治監督『闇の子供たち』(08)である。タイを舞台にした日本人の幼児買春と(生きた子供から臓器を抜き出す)臓器売買の現実――まさに現実――に、てらいなく切り込み、実に強烈な印象を残す。
■二元論的カタルシスが欠落した社会派映画だからだ。梁石日の原作を阪本自身が脚色した。一人の日本人記者・南部と、一人のNGO職員・景子が、子供たちを救うべく幼児買春と臓器売買に立ち向かう。だが現実は過酷だ。何がか。善悪二元論が通用しないことが過酷なのだ。
■素朴な正義感から幼児買春の現場に乗り込むNGOだが、人命を失っただけで現状を変えられない。闇の臓器売買は「掟」の世界。子供一人が犠牲になるのを阻止できても、契約履行のために別の子供がかわりに犠牲になるだけだ。素朴だった景子はやがて地獄の煩悶に陷る。
■生きた子供を使った臓器売買に、正義感ゆえに単身切り込む南部は、やがて子供たちが幼児売春宿から調達される事実を知る。生きた子供を使った臓器売買だと知って関わる日本の親たちは、(映画に描かれないが)いずれエイズに罹って死ぬ子たちだと説得されるのであろう。


昨年から常に不安がつきまとっていた。対外的なものから受ける不安ではなく、自身の内部の問題だ。
これまで現実がどうであろうと、自身に内在していた確たる何かが、霧消していった不安である。
日常や暮らしの大変さが、何かを奪うことはあるが、そういった消え方ではなかった。
この不安は、つかもうとするはずのないものに手を伸ばしてそれをつかもうとしているような、とてもみすぼらしい生きように誘ってる感じがあって、それがまた不安を増長させていた。
そしてそれは私だけではなく、社会そのものがそんな霧に覆われているんだ、というぞあぞあする底深い不安でもあった。
ひょっとしたら、これこそ危機なのかもしれない、と思い、どう立ち向かえばいいのだ、となんともいえない哀しさをも覚えていた。自分の限界とか、非力とか、そんなものを超えてもともと自分の足場を自力で培っていない実感も、不安をしみこませてきた。


そんな時のこの宮台さんの記事は、なんというか、一本で効く栄養剤のようである。