夫の病室にて・・・平野佳美さんの本と白い野バラ

夫の病院から今帰ったところである。また夕方行く。今日から食事が出るので、嚥下の具合など確かめるためにも私が介助したいのだ。
今朝病院に行ったら、夫は顔をゆがめて眠っていた。朝からこのように眠るのは珍しいなと思いつつ、夜眠れないといけないので、しばらくして肩をゆすって起こした。
起きたので、そばにおいてあった吸い飲みのお茶を口にもっていくとごくごくと飲んだ。その後、車椅子に移らせて院内を散歩し、車椅子からおろして歩行の練習をする。寝たきりにしていると足がすぐにだめになる。生きている間は、自力で歩いて自力で食べられるように心がけたいのだ。


夫は昨日と打って変わって機嫌が悪かった。昨日は病院側の人ににこにこと笑顔をむけていたのに、まったく無感覚な表情になっている。「どうしたんだろう?」と首をかしげるほどだ。
散歩が終わって病室に戻ると先生が見えた。
「夜眠らないので、眠くなる薬を飲ませていいですかね?・・・これが飲まないんだよなぁ・・・」とあとの方はつぶやいておられた。
「そうか・・・夫は昨日は昼間の陽気さのまま夜も躁状態でいて、とうとう厳しく叱られたんだ・・・そのショックの今日の陰気さなんだ・・・」とわかった。これまでも入院するたびにこの繰り返しであった。


熱も下がり、肺炎が悪化する様子もないようだし、新たな脳梗塞脳出血もないようだし、早く退院した方がいいかもしれない。夫の入っている病室は重症の高齢者の方が三人入院されていてとても静かである。夫は、注意されるとそれがほめ言葉のように思ってるのか、と思うほどわざとしてはいけない、といわれることをやる。無邪気でそうならまだいいのだが、自分のやることで人があわてたり、困ったり、いらだったりするのを見下しているような感じがあって、介護者は神経を逆なでされるのである。
1999年の脳出血のあとも、2002年の暮れに脳梗塞で入院したときも、回復と同時に、そうした性癖というのか症状というのか、とにかく先生や看護士さんやリハビリの理学療法士の苛立ちを誘い続けた。もちろん退院してからは私の、である。本当にストレスが高じて高じて参った。


昨日の状態からみて、ここでも問題になるだろうな〜と思ったが一晩でその様相が見えるようになっている。
身体の方さえよくなってるなら、明日にでも退院とするか・・・。


・・・と、それやおれやを思い巡らしながら、冬枯れにけぶる森や田畑の風景を窓からぼんやり眺めていたのだが、
いつのまにか、平野佳美さんの「傾聴猫又日記」を思い出し、また白い野バラを想った。
もう58年になるが、当時私は8歳で継母から生まれた弟の死と継母の自殺という抑圧で失語症のようになっていた。言葉を発しようとすると、胸に生き物がいて、それが膨らむような感覚になり息ができなくなるのだった。
そういう私に大人たちはみんな優しかったが、私はひとりぽっちだった。


その日、私は大池よりもっと奥にある杉山を目指していた。杉山は高くそびえる杉が密集して暗く、その底に小さいながら深い池があるのを私は知っていて、そこに行こうとしていたのだ。
前年、村の大池で泳いではいけないと学校から禁止され、私とあと三人ぐらいの子で、「大池がいけんのやったら、小池やったらええやろ」と杉山に潜んでいる小さな池で泳いだのだ。
仰向けに水に浮かんで上を見ると、杉山に囲まれた空が望遠鏡の筒の向こうに見えるように光っていた。それは恐怖をよぶ風景だった。遠い遠い果てにつれていかれて二度と戻れぬような強烈な寂しさをよぶものでもあった。
それっきり、その池で泳ごうとは思わなかった。


その池を、ひとりで目指していたのだ。
白い野バラは、その池の土手をはって咲いていたのだった。