救いを求める

昨日の記事に、救いを求めてキリスト教会の門を叩いた、と書いた。
私の、『救いを求める』というのは、命あるもの誰もがもっていていい個の尊厳のともなう”自信”をもてる自分でありたい、ということなのだ。親からこの本来的な自信を踏みつぶされてきた私には、この救いが絶対的に必要であった。これさえ持ち得ていれば、何百匹の猫や犬を捨て置きにこられても、びくともせず、家族をも守って賢く生きられただろう。

人の目や世間の評価や、経済の破たんなどに怖れおののき、無駄なエネルギーやお金や労力をどぶに捨てるようにして生きた自分であったことが今でも悲しくてならない。


だけど・・・救いは魔法のようには私に来なかったけれど、地を這う虫が灼熱の炎天に焼け、巨大な機械に踏みつぶされそうになりながらも、やっと青葉に辿り着くように、私の救いは訪れてきた。・・・よくわからないけれど、そんな感覚がするのである。もお、何も怖くないのである。