来なさいと言われたから来ました

真春さんと最初に出会ったのは、キリスト教の家庭集会でだった。ではその家庭集会に行ったのは何がきっかけだったかすぐに思い出せなかったが、今日ふいに記憶が蘇った。二十数年前に当時住んでいた埼玉県のK市内のプロテスタントの教会にわずかの期間通ったのだが、そこで知り合った人に誘われたからだった。

「B牧師が素晴らしい方だから、一度話を聴きに来て」と熱心に誘われたのだった。
私は外目には悩みをもたずいつも自信にあふれて生きているように見えるらしいのだが、実際は、こどもの頃から成人するまでは、神経質でよそ眼ばかりを気にする小心な父親からの抑圧を受け、結婚後は会話の成り立たない夫からの呪縛で、硬直した緊張と孤独感に苛まれる状態におり、常に深い救いを求めているところがあった。

K市の教会の門を叩いたのも、救われたい一心であった。私は聖書に対してもイエス・キリストに対しても疑いは持たなかったが、結局、人間関係を築くことができずそこを去ったのだ。その後、冒頭に書いた家庭集会に誘われて行ったのだった。

この日のことを真春さんはよく記憶されており、私にメールで、『あの日、あなたは、B牧師に、”来なさいと言われたから来ました”と言われました』と明かしてくださった。明かされて、『そうだった!』と思い出した。来なさい、と言われたのは、イエスから呼ばれた、という意であったことも思い出した。だが、その意味を、あの場にいた誰も、牧師でさえも気付いてはくださらず、一瞬の空疎感がよぎったことは、真春さんもわからなかっただろう。あの空気は、私が友人に来なさいと誘われたから来た、とこたえたのだと、その理解だった。

私にとっては、重要なことであった。イエスから来なさいと言われた、と感じ、感じたままに来た、ということをもしあの牧師が瞬時に悟ってくださっていたら、私はおそらくあのままあの家庭集会で何疑うことなく、みなさんと聖書を読み続けていただろう。この感覚が、私の浅はかな独善、自己満足であったとしても。

幸か不幸か、自分にとって最重要な核のような(魂と称している)想いや体感にまつわることでは、ほんの微かな揺れでも察知する私は、この年齢になってもそこに拘りつづけているが、それでも少しづつ、少しづつ、硬直した緊張感や孤独感がほぐれていってるのを自覚する。そして、「来なさい」という声をぴりぴりと耳を尖らせて待つと言うこともなくなってきた。ただ、魂の奥をゆるやかに開いて、風のそよぎや小鳥の囀りや水音、そして何気ない人の言葉を受け入れようとしている気がする。