憂鬱な隣人

たくさんの猫犬のいる我が家を世間は「憂鬱な隣人」と言いたいだろうが、私の側からでは、動物、生き物の命なぞ物以下に扱う人こそ「憂鬱」である。

前にもこのブログで書いたことのある斜め裏のお宅では、とにかく次々と違う子猫が数匹いて、少し大きくなるとことごとく姿を消し、また違う子猫が数匹現われるのである。
現在は親猫と思しき黒猫とそのこどもらしい子猫が四匹か五匹いる。

一昨日のことである。
夕方外に出ると、その親猫らしき黒猫と、何匹かの子猫があたりで遊んでいて、そのうちの一匹の子猫がニャァニャァと鳴きながら私のあとをついてくるのである。家に入りたい私は困って、抱き上げ、斜め裏のお宅のインターフォンを押した。奥さんの車はあってこどもさんの声も聞こえたのに出てこられない。仕方がないので子猫を下におろし帰ろうとしたが、その子猫は必死で私についてくる。「猫ちゃん、私は家に帰るから、あなたも自分のおうちに帰ってね」と言っているところに、そこのお宅のご主人が帰宅された。
ああ、よかったと、「この子猫お宅のですよね」と声をかけた。
一度は、「あ、そうです」と抱きとられたのだが、すぐに「違うワ」と返された。

無遠慮を承知でこの機に猫のことを訊いておこうと思い、「猫の不妊手術はされないのですか。猫は次々生まれますから、貰い手探しが大変でしょう。手術費用を安くしてくださる病院もありますよ」と言った。
こうしたことはこれまでも複数軒の方と交わしており、何匹かの犬、猫の手術をしてきたのだが、全部の方が、「手術をしたほうがいいと思いながらなかなか行動できなかったのですが、言ってもらって手術の決心がついた」と言われた。また数匹以上の猫や犬の手術を私のほうでさせてもらった。そうやって独力で、祈りととともに殺されたり捨てられたりする猫犬がいなくなるよう努力してきた。
そうした時、相手の方は、最初は戸惑いを見せられるが、私の他意のない気持ちは伝わったという感じであった。

ところが、斜め裏のお宅のご主人の受け取り方はちょっと違うのであった。もちろん人によって違うのは当然で、これまでと違う対応を見せられることがあってもおかしいことではない。だが、そういう違いではないのだ。うまくいえないのだが・・・『このお宅は、猫を飼う、という意識ではない別の意識、感覚があるようだ』と感じるものが私に残ったのだ。

何年か前に、我が家の地域のはずれに古い一軒の平屋があるのだが、そこに一時期住んでいた若い女性が、子猫をどんどん産ませ、なんらかの商用に使っていた節があった。このように思ったきっかけは、ある春先のまだ寒い時期に、子猫を三匹小さな金網のケージに入れ、家の前に置いておられた。敷物もないケージのなかで、三匹の子猫は、わきの道を犬を連れて歩く私にむかって「ニャァニャァニャアニャア」と鳴きたてている。いかにも哀しげに聞こえ、また寒空にそこにおかれている状態が奇妙に感じ、私は犬を家に置いてからそのお宅を「ごめんくださーい」と訪ねたのだ。
出てこられた若い女性は、私の要件を訊くまでもないように、いかにも待ってましたという風情で、子猫のケージに近寄り、しゃがんで金網越しに子猫の鼻面をなぜ、「かわいいでしょ」と言われたのである。その瞬間、『商品をすすめる人の匂い』を感じた。

「この子猫、お宅で生まれたんですか?」
「ええ、そうですよ」とにこにこ。
「よく目やにだらけになった小さな子猫が一匹づつこのあたりに捨てられて、私は見かねてみんな保護しているんですけど、あの子猫たちもお宅で生まれて、あのように置いておかれたのでしょうか? この子猫にしても、こんな寒い日に籠にいれて外に置くなんてかわいそうじゃありませんか?」
「!・・・・・・・・・・・・・」
「この三匹は私が引き取りますから、親猫は不妊手術をしませんか。私もお手伝いしますから」
「・・・・・・・じ、実は、母親が産ませているので・・・」
「お母さんに私からお願いしてみますよ、今いらっしゃいますか?」
「・・・い、いえ、別のところに住んでいるので・・・・・・」
「そうなんですか。お母さんにお願いしてみてください。産ませて次々捨てたり、こうしてかわそうな飼い方をしているより、もうこども産まなくなった親猫をかわいがられたら、きっとお母さんご自身も安らがれると思いますよ。私もこうしてよけいなことを申し上げていますから、できるだけ協力します」
「ええ・・・え・・・・・・・」

この後、数日も経たずにその女性は古い一軒家から姿を消された。
斜め裏のご主人から受けたものが、この女性の感覚と似ていたのである。
はっきりいえば、”この人たちは、猫を飼いたい人ではない”という感覚である。

雑種の猫に赤ちゃんを次々産ませて、家族としてともに暮らすという以外のどんな利益をもたらすのか、私にはわからない。
わからないだけに気になり、案じられ、憂鬱なのである。
わかるのは、あの古家のあの女性がいた頃、たしかに奇妙な捨てられかたをしていた子猫が多かったということと、あのケージの三匹は我が家のハク・ルル・チャパ(現在はハクだけだが)であるということ、そして、斜め裏のお宅の短期間で次々違う子猫がいるということだけである。

全てが私の過剰な受け取りであり、あの古家の猫たちも、斜め裏の猫たちも、ただ手術のような不自然なことはしたくなく、生まれたら貰い手探しをされているのだ・・・・・そうでありますようにと祈るのみである。