歩行訓練士<清水美知子さんの視座>

苦しむ人を前に、「苦は自分の内からでるのだ」と、まるで苦しむ人に問題があるかのような言い方をする人が結構いる。
そういう場合もあるかもしれないが、そうでないかもしれない。その人がまっとうだからこそ苦を深く抱えて生きておられるのかもしれない。

パルシステムが発行している「のんびる」という生活情報誌の記事を書いていた頃、何人もの苦しみながら思索しつつ自分のやるべきことにあたっていた人に会った。
その方たちの、社会やシステムによせる怒りややりきれなさの視点に、ずいぶん共感と学びをもたらせられた。
今夜夜半に目覚めてそのまま眠れぬままに物思いにふけっていると、取材で出会った人たちのブログ記事をいくつかここに転載しておこうと思いついた。その人たちが背負っておられるものや視点は、何の問題にも共通すると思うからだ。
最初は歩行訓練士の清水美知子さんの記事を。http://secondleague.net/user/001/001/275.html

歩行訓練士<清水美知子さんの視座>

清水美知子。歩行訓練士である。弱視や視覚障がい者の生活の場で、実際の手助けをしたり、講演活動を各地でしている。「社会に出ようという時、いろいろな職種を想定に入れて取捨選択していったら、この仕事が残った。」


エンパワーメントの功罪
障がい者は、長年、行政側から一方的にお仕着せを与えられていた。国が面倒見るから、言われた通りにしていればいい、と。
ところが10年前頃から急にかわった。これからは何事も自分でやりなさい。補助の一割は自分で出しなさい。・・・これまでやるな、生活は面倒見る、と言われて何も教えられず出来なかった人が、突然、何もかも、やりたければ自分でやれ、と言われて出来ますか? みんな戸惑い迷います。
・・・ここで生じる摩擦や不備を、行政側が、『こちらのやり方が至らなかった。』と自らの不備を認めてくれればいい。そうすれば、当事者は心が楽になリ、ストレスも深刻にはならない。なのに、行政は、認めないんですよね。だから、障がい者は、いきなり、歩くために必要な杖をとられて放り出されたような追い詰められた切羽詰った感じにいる。こんな土台に、自分で立つ、なんて出来るはずないですよ・・・。」


清水美知子さんは、よけいなことは言いません。いきなり、このエンパワーメントの核心に迫ってきました。でも、とても静かな穏やかな口調です。風で称すると、”そよ風”がそよぐような優しさが漂っています。
だから尚のこと、聴く方の私は、居住まいを正すものがありました。


エンパワーメント・・・自分で能力をつけ、その能力で生きる。・・・この論理を知ると、思わず、「そうよね!」と頷きたくなります。
論理を知りたい方は、『エンパワーメント』でネット検索にかけてみて下さい。さまざまな活動に用いられています。
根本から、一段一段階段をあがるようにして活用していけば、いい結果が得られる、これからの自立の時代に必要な方法論をもったものだと私は思いました。
ですが、正論こそ、根本の実践をないがしろにしていけば、かえって、苦しむ当事者を追い詰める、ことになるものです。
清水美知子さんの視座には、こうしたことへのアンチテーゼが確としてあるのだと、そのことに居住まいを正されたのです。



それでは、もう少し、清水さんのお話を聴いていきましょう。

具体的には
仕事は、具体的にはこのようなことをします。
例えば、家庭の主婦の方が、高齢になったり、あるいは事故などで目が不自由になると、家の中の移動もできなくなります。それを手助けしながら、やがてはその人が、不自由な中にも自分でできるようになることを意識して、台所の流しに立って、冷蔵庫のところまで行くには、身体をどこに向けて、何歩行くか、などを指示もしていくのです。
通勤に困っていたら、そこに入り込んで解消させてあげる。


後遺症で不自由になれば大変だし、気の毒ですけど、でも、人間て、生きるためにしなくてはならないことは、どんなに逼迫してようと、困ってようとやるんですよ。トイレも自分でできない、というほどにはならない。生活の核になることは、いつの間に自分でやっている。


それよりも、気になることは、例えば、目の不自由な人は、現在厚生省で統計上つかんでいるのは30万人なんですけどね、その人たちのカテゴラスを、高齢になっておきたことも、事故や病気でそうなったことも、『障がい者』としてくくってしまうこと。
これでは、一人一人に役立つような、システム上の手助けはできないでしょう。介護保険ひとつとっても、個人の意志は反映できないし、当事者の選択は出来ないようになっているのだから。
高齢者の介護と、障がい者の介護は違ってくるはずだし、障がいの状態によっても違うのに、みんなひっくるめて同じ中にいれてしか考えない。それで、当事者が安心できる介護になるでしょうか。
とにかく、個別で考える、という視点が必要だと思います。
カリュキュラムは、現場の声と程遠い内容になってることもあるし・・・。


日本は、『形』、『枠』を作ってそれでいい、としてしまっていることが多い。本当は、『心や気持ちが感じたもの』が大事でしょ。『当事者が感じている、今苦しんでいるものを知る、理解する心、気持ち』。


視覚障がい者を支援するための講演や学習会で求められるのは、『目が見えないとはどういうことか』という方向で教える、ということ。でもそうではなく、私は、『目が見えるとはどういうことか』を言いたいですね。
それがわかってから、はじめて『見えないこと』がどういうことかがわかるんです。


行政に見るもの
ある行政に携わる人が、障がい者を揶揄した川柳を書いて、それが公になりその人は叩かれたことがあるんですよ。
役人(本音を決してはかない人、それを許されない人)が、内部の雑誌に載せた川柳が外部に漏れたんです。
このことから、役人の本音がうかがえ、本音で議論のできるよい機会だったのです。それなのに、行政側も当事者側も、川柳の中味をただただ不謹慎としてそれを抑えてしまったんです。
行政の担当者と障がい者、ヘルパーと老人、ヘルパーと障害がい者、見える人と見えない人、などなどが、タブーをなくして議論し合える、むしろいい機会だったのにそれをしなかった。相対することになる同士が、壁をなくして本音で、必要な議論ができる状況を作り出すことは、本当に大切なんです。


行政側の人は、意見や言葉がころころかわる。強い方に合わせていく。昨日、こっちが強ければ昨日はこっちの意見を言い、今日はあっちが強ければ今日はあっちになる。
こうした確たる理念のない強い力の手のひらで転がされる、何らかの弱い部分を抱えている者は、心を満たして安心して生きれない。
ではそんな力を頼らなければいいではないか、ということではないのだから。障がい者は、支える力が必要なのです。
その力が、出来ないことは出来ない、と言ってくれればいい。自分たちがするべきことを、自分たちが出来ないから悪い、と認めないで、自分たちの出来なかった責任を、障がい者にかぶせる・・・これが、日本の実情であり、障がい者の悲しみ、悔しさ、心が落ち着かず満たされない核なのです。
だから、陰で揶揄した川柳を書き、それをバッシングして蓋をしてしまうのは、人間同士の基本的な関係、すらになっていないことの証ですよ。
とにかく、話し合わなければならない。あの川柳は、話し合ういい機会にできたんですよ。それを叩いて封じた。これが残念で悲しいんです。



リポーターの独言
清水さん、私はあなたとお話ができ、自分の保身や営利性を全く持たない、あくまで苦しむ当事者の想いに立った言葉を聴き、『生きててよかった!』と思ったほどでしたよ。本当にありがとうございました。


そうそう、私と清水さんの出会ったきっかけを記しておきましょう。
10月に、ある中学校で開催された、『ボランティア体験学習』の場でお会いしました。この時、清水さんは、視覚障がいを学ぶコーナーの指導を受け持っておられました。
学習が終わって総合での反省会の時、「挫折感でいっぱいです。」と言われたのです。
その言葉に惹かれて、私は名刺を交換しました。『この人の”挫折”の中に、知るべき真実が潜んでいるのではないか・・・。』と思ったからです。
私の、直感は正しかった! 必要なご意見をたくさん聞かせていただきました。多くのことを教えられ、また深く共感しました。今後のご活動に成果のあることを祈っています。
清水さんのホームページは http://www.ne.jp/asahi/michiko/visionrehab/ です。
弱視視覚障害に関して相談されることがありましたら、ホームページ内のアドレスにメールを送られるといいと思います。


追記:川柳の件で、私の理解が間違っていまして、その指摘を清水さんからいただき、11月20日、修正致しました。清水さん、読者の方々に大変失礼をしてしまいました。申し訳ありません。
指摘していただいて、理解が深まり、一層、清水さんの洞察と視点に信頼を覚えました。ありがとうございました。