「猫の家犬の庭」のポリシー

おはようございます。茨城の空、今日も暑く暑くなりそうです。皆様の空はいかがですか。

ところで私はたくさんの猫や犬と暮らしているのですが、そうなった経緯や、そこから見えてくる問題点、思いなどを、「猫の家犬の庭」というサイト(ページ)に書いています。
http://www1.odn.ne.jp/~kaze2005/maomaodoor.html

ぜひ読んでいただきたいと思う記事を、少しづつここに転載したいと思います。
まず、↓の文です。書き足りない面もたくさんありますが、このような暮らしになった三十年間、変わらない思いの部分です。

ポリシーにかえて=『願い』『祈り』という私の挑戦
ここは、生き物や自然との共生の願いや、動物や小さな生き物を捨てたりいじめたり
しないでという願いを発信している、なかむら子湖個人のサイトです。
動物の引取りや預かりはしていません。


私は子どもの頃から動物や鳥たちが好きでした。生き物を見かけると、どんな時も親し
みの感情がわくのでした。
そして大人になったある時期から、単に動物が好きとか可愛い、と言うだけではない
交流になっていきます。
それは、1978年の春は4月、桜満開の下のノラとの出会いからです。
小さな痩せ細った三毛猫のノラ。私の”永遠のノラ”となった小さな猫。


ノラとの出会いから、私は、多くの猫たちや犬たちと、生活をともにする運命を選ぶ
ことになったのです。と書くと、”猫や犬たちとの優しい心温まる生活を顕そうとして
いるのか”と思われますか?


もちろん、あの仔らが私にもたらせてくれたものは全てがそうでした。奇跡のように。
でも、それだけでは決して生きられなかったのです。癒しようのない深い傷を負って
きました。
人々が、どんどん我が家に猫や犬を捨てに来て、しかも私が全部を引き取るのが
当然としてくる、その自分勝手と無責任と無理解と冷酷から。
それらに賢明に対応できず、ただ怖れるだけだった自分の弱さの情けなさから。
そして、どんなに守ろうと心を尽くしても、自分の無力からどうすることも出来なかっ
たことも数多くあったその悲しみと悔いから。


これらの傷、悔い、呵責、怒り、悲哀、理不尽の思い、やりきれなさ、切なさ・・・は、
人間不信のみならず、私から、”普通の生活”と”自分の自信”を奪い、私の精神と
神経を蝕んだのです。


私は自分を蝕んだものへの『挑戦』として、このサイトを開いたのです。
この世に生まれて、母親の懐以外のものを欲しがることなく、なのに、深痛の中で
滅びていった沢山の生命への鎮魂と惜別の想いとともに。


ここで言う『挑戦』とは、『願い』『祈り』です。
『捨てないで! 殺さないで! 追わないで! いじめないで!』という願い、祈り。


どうか、想像してみて下さい。
捨てられた子猫や子犬が、必死で親を呼び、探し、飢えと不安と寂しさの中で力尽
きて死んでいくその哀れさを。
老いて捨てられた猫や犬が、どんなに自分が生きてきた安住の場所に戻りたいと
願うか、その切なさ悲しさを。


・・・もうやめましょう。小さな生命と心をこれ以上傷つけることは。そうしないため
に、例えば、子犬、子猫を産ませない手術をする方法があります。
正直言いまして、手術もむごいことです。


でも私は、この二十数年間に、捨てられた猫たちや犬たちの悲し過ぎる運命を、
これでもかこれでもかとばかりに知ってきました。知りたくなどなかったのに・・・。
私が、どんなに心と力を尽くしてもどうしてやることも出来なかった痛ましい姿。
やはり手術をして産ませないことしかないと思えてなりません。


捨てられる猫や犬は、飢えや寂しさの果ての死以外に、実験動物にされるという
悲惨な運命を負わされることもあります。


私は動物実験に反対します。人間の幸せの追求のための実験は、生命ある
動物の犠牲に寄らない方法をとるべきではないか、現代ならそれが可能ではない
のかと考えています。


医学の進歩は必要ないと言ってるのではありません。進んだ医療によって、
多くの人の生命が守られることには感動します。また私や家族も恩恵を受けて
きました。
ただ・・・そのかげに、どれだけの生き物が凄絶な苦痛を強いられ、あげく生命
を絶たれているか、そのことを思う時、”これでいいのか、人間の幸せのためなら、
他の生き物は道具にしていいのか”と、天に烈しく問うて問うて問いたい思いに
かられるのです。


これまで、あらゆるものを可能にしてきた人間の”英知”というものは、あらゆる
ものを人間のために犠牲にさせてきた結果でしょう? 
これまでは、そうする必要があった。そうして英知たる成果を生んできた。


でも、これからは、生き物の生命を道具としないでできる時期にきているのでは
ないでしょうか?
これからの”英知”は、それを可能とするところにあるのではないでしょうか?


『挑戦』はほかにもあります。
*動物を抱え、社会から理解されず、人権を蹂躙されている人たちのことです。
これは、私が、動物たちの生命を守りたい、という思いを持つ時、常に提示され
てくるものです。


私もそのひとりになっていますが、動物を実際に抱えた者はしばしば、生き物に
生命があるなどとあまり考えない人々からはおろか、動物を保護するべき行政
や、動物を愛護している側の人々からも、曲解や中傷や一方的な決め付け、
見下し、はては方策まで押し付けられるという形で、人間としての尊厳を傷つけ
られることがあります。
動物を多く抱えた者たちは、見るからに奇異な生活になってしまっていることが
ありますから、誰かがその気になれば、容易に疎外し、世間からの理解が遠のく
ようにすることが出来ます。


そうなった時、奇異に見られることや疎外感を耐えている者は、自分を保っていく
ことは難しくなります。心身ともに疲れきり、どうでもいいという思いに蝕まれ、
なお孤独になります。


どうして、小さな捨てられた動物が親を求めて泣くのを見捨てられなかった人々
が、動物を置いていかれるという過酷に加えて、そのような理不尽を耐えなけれ
ばならないのでしょう。

  
その人たちにも確かに問題や欠点はあるかも知れません。その人たちのほうも、
世間を拒否し、頑なになっている場合もあるでしょう。私自身もそのような傾向に
流れることがあります。


でも、私は言いたい。個人個人の特性や、せいいっぱいの抵抗の頑なさ以上に、
社会はもはや自分と異なるものに心を開く広さや厚みを失っていると。それは冷
ややかさ、無関心という形であらわれ、時には、ちょっとしたことでよってたかって
”一人”を許さない、あらわれ方をすることがあります。
残念ながら、動物を見捨てることのできない人たちは、その”一人”にされてしま
うことがある。

  
ここに私の、願い、祈りという『挑戦』があるのです。
*動物を抱え、社会から理解を受けず、まるで悪いことをしているか、
無能者のように 決めつけられている人の側に立ち続けると。


長くなってしまいました。このような文を書くとき、私は心が猛ってきます。
この二十数年間に、私の家や近くに置いていかれた猫や犬は400匹を越え、
一匹もよそに捨てたり、保健所に依頼したり、また誰かに頼ったり押し付けたり
はしてこなかった、この私の現実は、まさに、”戦いは望まないが、一歩もひかな
かった闘い”でありましたから。
あまりにも、苦しく、寂しく、孤独な闘いでしたから。誰からも真の理解も評価も
されない、せいぜいあるとしても、見下した評価や苦笑の理解でしたから。


でも、私は、トンネルの中の迷い道を突っ走っているだけ、のように思えた長い
時間の中から、やっとこの頃、”挑戦”をこえる”真実”が見えてきた気がしている
のですよ。


<猫だろうと犬だろうと、大きな生き物だろうと小さな生き物だろうと、そして私
だろうと、全てのものは、自分が生まれた、あるいは自分が求める”場所”で、
己のままに、悠々とのうのうと生きていいのだ。それは、天の下、当たり前の
ことなのだ。その当然のことを望みとして生きよう>と。


                             2002年7月 記 /span>