2010年、サッカーW杯の残したもの

私にとって、一番印象に強く残ったものは、アルゼンチン監督マラドーナが、試合を終えた後選手をひとりづつ抱きしめていて、結果を出せなかった選手をこそ誰よりも強く抱きしめた、という報道。このチームは誰にも自信を失わせしむることなく、ベンチにいる選手もろとも真実力を出し切ってたたかうだろう。

日本チームに関して、二、三日前にテレビかラジオで聴いたのだが、司会者とゲストが三浦カズ選手を話題に取り上げ、それによると、カズ選手は今年のW杯代表に選ばれなかったことを落胆されていたという。「彼は本当に、選ばれたかったようだね」「そうらしいね」というような会話を交わしていた。

これを聴いた時、胸にキーンッという痛みのともなう感慨が刺さった。
スポーツ音痴の私でもよく記憶している何回か前のW杯で、試合の現地まで選ばれて行きながら、最終選考にはずされて北沢選手と日本に戻ってきた日のこと。それが誰もが想像もしなかった結果であったこと。当時の日本のサッカー界で実力、人望、人気ともにナンバーワンであったこと。そしてカズ選手自身のW杯にかける強い思いをみんなが知っていたこと。・・・それらを蹴ってカズ選手を帰したのが岡田監督だった。

あれから何年も経ち、選手としての力も当時とは違うだろう今回のW杯に、なおカズ選手は夢を賭けていたのか。あの日からず〜〜〜〜〜っと。引退をささやかれながらなお選手として試合に挑み、鍛錬を続けておられたのは、今回の選考に賭けておられたのか。

私は、決勝リーグ一回目の試合がつい先ほど終わった後、中継していた人たちが口々に、「選手は一体になって戦った、一体になったことが意味があった」と慰めあっているのを聴きながら、複雑な空虚感にとらわれている。

一体ってなんだろう? 一体にもっていくために、昨日まで持ち上げていた選手をただの踏み台にして駆け上がったのじゃないのか?
限られる人数を選び抜くのに誰かは必ず選に落ちる。それは当然のことであるし、そのことを言っているのではない。選び方とその結果に対して、どれだけ、力ある選手に対する敬意と責任感をもってしたか、それをわかった懐をもった英断であったか、ということだ。要するに選考する側の人間の質を問いたいという思いだ。

カズ選手が全盛期を過ぎて数年経った今も、W杯への目標に堂々と挑んでおられたのには、そうしたことへの示しでもあったのではないか、と思え、胸に刺してくるものを感じたのだった。



今回もまた、自信を失わしめ、絶対的な優位性を保持し誇示しての選考でなかったなら幸いだ。・・・はっきり言っておこう。
俊輔選手をあのような位置においた事実を、私は許しがたい思いを噛みしめている、ということだ。怪我やそのほかの問題がみえて、勝利のためにメンバーからはずしたなら、それはそれで仕方のないことだ。だが・・・もし別の人間性の長じた博愛の懐をもっている監督なら、形は同じことになっても、彼の在り方は違ったものになっていただろう、ということだ。選手は監督の何なんだ!? 敬意ぐらいはらってしかるべきではないのか!?

私というフアンの一人が消えたところで痛くもかゆくもないだろうが、私は今回を最後のサッカー応援とする。試合そのものは愉しかったが、自分が感受するものに従うしかない。

多分、「一体になった、なった!」と湧く声の渦の陰に、空しい思いを噛みしめている選手もおられるだろう。その選手たちの未来が輝くものになることを心から祈りたい。
それから、Pkに失敗した駒野選手にも。つらかったでしょう。たくさんの人がいっしょに泣いたと思うよ。負けた悔しさでなく、つらさをわかちあうために。