四月の雪

朝起きると雪がつもっていてびっくり。私の60年余の人生の中で、四月の雪は記憶にない。
昨夜、冷え込みそうな気配に満ちていたので、二階をねぐらにしている森の猫のニャンタとチャチャチャが部屋に入ると外に出ないように窓の鍵をかけておいたのだがよかった。

これは、ニャンタとチャチャチャを守る意味もあるが、ほかの空腹で決まったねぐらのない猫たちを守るためが大きい。ニャンタとチャチャチャは、森の食卓を自分たちのものだと思っていて、ごはんを食べにくるほかの猫たちを追っ払ってしまうのだ。二匹は、猫として自分の信じるように生きているだけで罪はない。

でも私にしたら、安心のねぐらもなく飢えに苦しむ猫たちこそが気の毒でならないのだ。
そこで、天候の悪い日はニャンタとチャチャチャを家に閉じ込め、食卓にくる猫にせめてゆっくりごはんを食べさせてやりたいのだ。うまくいくと、古布団やハッポースチロールの箱などがあるうちの物置で眠ることができるかもしれない。
物置は四畳半の広さがあって、箱類や毛布、布団類がたくさん置いてあるので、家のない猫たちがみんなでねぐらにすればいいのに、と思うのに、これが、人間界の人間さまとひとつもかわらないのである。いがみあい排他しあう。

・・・これもまた自然の姿のひとつかもしれないってことかな。あらゆる欲望が消えた世界を想像するに、必ずしも幸せな世、のイメージがわくとは限らないのだからして。


話はちょっとぶれるが、昨日の寒さのなか、森の猫たちの食卓がすぐに空っぽになることが気になった。その空っぽぶりが一粒も残らないという完璧な空っぽ状態になるのだ。おなかをすかせた猫がせっかく食卓にきても空っぽになっていたら、どんなにつらかろうと、何度もフードをもっていったのだが、しばらくして様子を見にいくとまた完璧空っぽである。
猫の食べ方ではない。犬かネズミか鳥だろう。そのうちネズミは昼間はここまで食べてしまうのはありえない。夕方になって暗くなってきても空っぽ状は続くので、鳥ではないこともわかった。
すると犬だ。
時々二匹の犬を放す家があって、その二匹がゆうゆうとあたりを闊歩している間は、猫たちの食卓はこうなるから、『例の犬たちかなぁ』とも思ったが微妙に違うのだ。あの二匹の場合は、一度猫たちのごはんを根こそぎ食べると、その後何時間かは来ない。
今回は、まるで私が森の食卓に行くのをどこかで見ていて、私が去った後にごはんを食べてしまう、という感じなのである。
私の方も見張ってどこの犬かを知ろうかとも思ったが、私にはその根性はない。ごはんの配達、不妊手術など余人から見ると結構めんどうくさいことを熱心にやっているのだが、見張ったりなぞのめんどうくささをクリアする根性はないのである。
猫のごはん運びだけではなく、ほかのなにごとにも、『めんどくさっ、もういいや』とほったらかしてしまう日常である。ま、だらしがない、ともいいますが。

それやこれや、四月の雪を愛でる余裕があればこそ、の私の雪の日でありました。
これを書いている正午過ぎ、気温は少しづつあがっているようです。そんなに寒さは感じません。窓の外の雪も消えてきてあります。


これからほんとの春になるかなぁ〜と思ったたった今、ラジオで、「来週も寒の戻りが・・・」と・・・・・・・。