ペット葬儀業者の犯罪

この事件、実態が明るみになるにつれて社会的ないろんな意味を含んでいると思う。
高齢者を狙った振り込め詐欺は、対応が冷静にできない高齢者という”弱者”をターゲットにした犯罪といわれているが、それ以上の弱者が、物言わぬペット(生き物)と、ペットのためなら疑うものも疑わない飼い主である。
おそらくこの容疑者は、何年も前から、何の良心の呵責もなく、葬儀を正しくすると偽ってお金をとり、飼い主の愛情の注がれたペット(生き物)を、”廃棄処分”と称される処分を続けていたのだろう。
報道によると、町議だった人間だという。こんなやつがどんな顔をし、どんな言葉を発して、町の議員をやっていたのだろう。唾をはきたい薄汚さだ。

だが、私は、この男のレベルの思考、生き方をしている、何事もなければそれなりに立派な態を保っている人間は多いと思いますよ。何かの事件のたびに、「世間はみんなそうだ」とか、「ほとんどの人間がこうだ」などと私は書いているが、犬猫の捨て場にされて、社会の異端者、迷惑者のように見られるようになってから、どんな事件でも、現象でも、それを起こしたとされる人間の問題ではなく、社会全体の人間の問題だ、と心底から思うことは多い。

それは、自分は別だとして社会のみんなを強欲で無知でと言っているのではなく、また卑下でもなく、自分もまた社会の一員の側であることを自覚していることだ。たとえ現在、異端者、迷惑者と位置されるところに押しやられているとしても、だ。


夫が他界して、しかも社会に対しても家族に対しても誠実に真面目に優しく清潔に生きてきた夫が、犬猫屋敷の暮らしに甘んじるしかなくなり、病院内の一部の看護士や医師からばかにされた応対をされ、惨めな死を迎えた(私が迎えさせた)現実、この重みを耐えながらひとり生きていこうとしている今、これまで以上に、社会と人間の光と影を、くっきりと感じるようになっている。