介護老人施設「たまゆら」火災、「経営者逮捕」に思う

これまでの報道と今朝の新聞記事から考えると、亡くなった十人の方は、外から施錠されていて逃げ道をふさがれたことで焼死されたのは間違いないようだ。
火災がおきた当時の報道では、施錠されたドア近くで折り重なって亡くなっており、その殆どの方が家族もわからず行き場がないまま、東京都のある区から「たまゆら」にまわされた方々だったという。そして火が出た時、職員は施錠をとく時間はあったはずなのに見殺しにした、ということもあった。
これが本当なら許せないと、当時私は行政や施設の人間にどうしようもなく烈しい憤りを覚えた。そして、なぜこの施設のヤツラは逮捕されないんだ! とそのこともどうしようもなく烈しく烈しく思った。社会に絶望も覚えた。人間も大っ嫌いになった。


今回、経営者が逮捕をされて、新たな複雑な虚しさを覚えている。報道でみる老いた経営者の顔は非難をするにはあまりに悲しくはかなく感じるのだ。今はそれらの思いを表現する力がない。
ただただ亡くなられた方々のご冥福を祈るばかりだ。

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思い出す。夫が徘徊が激しかった頃、私は父親の介護に他県に通っていて、そういう日は夫をある施設にショートスティをお願いしていた。
ある時のこと、夫を迎えに行くと、なんとなくいつもと様子が違う。ヘルパーの男性が元気がないのだ。彼は何もいわなかった。それが後日、夫が夜中に鍵を開けていなくなり、担当だった彼は他のヘルパーさんも招集して必死に探したというのだ。

この時期、夫は自宅にいても夜、外に徘徊に出て私を困らせた。寒い時期に夜の10時にいないとわかり、明け方の6時にパジャマだけで氷のような冷たい身体で、比較的近い場所でユーレイのように立ちつくしていた夫を見つけたこともあった。死なないでくれて本当にありがとう、と夫と天に祈ったもんだ。
こういうことが続いて、私は夜になるとドアの開閉の部分に何十枚と重ねてガムテープを張り、私自身は玄関際の廊下に布団を敷いて寝た。夫が外か階段を登ろうとすると私の身体を踏んでいくので、疲れて眠り込んでいても目が覚めた。この方法は成功して外にも二階にも行かせない様にできたが、私はある夜当時は七十キロあった夫にもろに踏まれて肋骨にひびが入ったものだ。玄関のドアに挟まれ小指の先が砕けた(医師の表現)こともある。親指もおかしくなった。(今も字が普通に書けない)


つい自分のサンジョウをつらつら書いたが、何を言いたいかというと、徘徊する利用者がいると、本当に大変だ、ということだ。何人の利用者がいても、たいてい夜は一人しか職員がいない。それでは全員の安全をはかるために外からの施錠を思いつく、ということだ。

でもこの方法がいいはずはない。
つまり、一番言いたいのは、現在の介護法が貧しい、ということだ。高齢者や認知症の人権尊重の介護、命を守る介護制度、と謳うのなら、それに相応しい、制度を実現させて欲しいということだ。
職員の数を増やすこと、仕事の意味と過酷さを考えた正当な報酬を出すこと、この二点は絶対的に実現させなければならないだろう。それをしないままで続くなら、「たまゆら」ばかりになりますよ。表に見えない部分で、介護の現場が(医療の現場も)目を覆う有様になっていることを政府はどこまで知っているのでしょう。それを一身に受けているのです。助けてとすらいえない高齢者、認知症の人々が。そして、充分な教育を受けないまま重い仕事を背負わされて低賃金で働く人々が。