ある死

昨日のお昼前のことである。病室で夫のわきにつきそっていると、廊下をガラガラと寝台を移動させている音がして、「あ、カレーの匂いがする。お昼はカレーなんだね」「あ、ほんとだ、カレーだ」と女性の結構大きな声が聞こえてきた。カレーの匂いが流れているのは私も気づいていたので、なんとなく微笑して開いているドアからその人たちの方に顔を向けた。

すると、人が乗せられている寝台がみえた。顔にレース状の布がかぶせられていた。亡くなった方が、霊安室かどこかに運ばれておられるのだとすぐに思った。その台を押している二人の女性がカレーのことを話しておられたのだった。

自分の内臓がストンと下に落ちていく感覚を覚えた。病院での死は常にあり、そこで働く方々には日常的なことに過ぎないのだろうか、いやもしかしたら、たまたま匂ってきたカレーの話でもしていかなくては耐えがたい気持ちであったのだろうか、と逡巡することで、急激に襲ってきた重い感覚をやり過ごした。


だがこの後、気が塞いで塞いでどうにもならない。
午前中に病室に入ったとき、前日まで隣のベッドに夫より大分高齢の男性がおられた。その方がかなり重篤でおられることを私は感じていた。でも午前中に隣のベッドが空いているのを見て、『重篤に感じたけど、ほんとはそうでなくて、落ち着いて安定されていたんだ』と思った。重篤の患者はナース室の隣の部屋にいて、少しよくなったら別の病室に移るのだ、と思っていたからだ。だから、隣のベッドの方は、別のほかの患者さんと一緒の部屋に移られたのだと思ったのだ。


夫の処置にこられた看護士さんに、「お隣の方、ほかの部屋に移られたんですね」と明るく訊いたくらいだった。
「ええ」と看護士さんは答えた。
「よかったですね、それだけ元気になられたってことですよね」と私はノーテンキに続け、看護士さんの「ま、そうとは限りませんけどね」との答えに意味深長な色合いがあることにも気づかなかった。


今ごろになって、昨日の看護士さんの言葉の意味がわかってきた。
あのおじいさんは、この世での終わりの時刻を迎えるために別の病室にいかれたのだ。そして亡くなられて、ああして二人の看護士さんに、もう二度とこの病院に来ることのない場所に運ばれておられたのだ。


光り輝く温かい世界に向かうような死のイメージの絵画をしばしば目にする。
だが現実の場にいる死というものは、こんなにもあっけらかんとした花道を独りで、まるで追われるがごとにくにたったかたったかといかなくてはならないものなのか。
家族や自分の死を考えるところに、そうした現実的な覚悟というものはまだまだできていない。その覚悟をする、ということがどうしようもなく寂しい。


昨日なんの準備もなくみおくることになった『お隣りのベッドの方の死』を思うたびにかってない質の寂しさがおしよせてきて涙がにじむ。そして今ごろになってやっと、その方のために深く祈れるようになった。
どうか安らかにお眠りください。