相棒 再放送 ノアの方舟

本放送の時に観たのだが、それでも再放送があるとわかって夫の必要な介助などを早めに済ませてチャンネルを合わせた。ドラマの筋立てなどについては本放送で書いているので、今回は最も心に残ったことをひとつ書いておこうと思う。


私が相棒に惹かれるのは観終わった後に感じる癒しの感覚が嬉しいからだ。音楽を聴いても本を読んでも、心に荒野で泉の水が注がれるように清澄な思いを取り戻し、しみじみと心身が軽くなって囚われ感がなくなってくることがある。この感覚を私は「癒される」と受け取っているのだが、相棒の場合、こうした感覚とひとあじ違う癒し感がある。


音楽や本から受ける癒しを「荒野の泉が注がれる」と言うなら、相棒のドラマからしばしば「荒野で友達に会った」という癒しなのである。


例えば、今日の再放送で観た「ノアの方舟」で言うと、ラストに犯人が、瀬田法務大臣(渡哲也)を、「お前のせいだ、お前が悪い、わるい、わるい、わるい」と烈しく罵倒し、後に、「瀬田大臣が悪いのではないことをわかっている・・・」と泣き崩れる。・・・・・ここで私は堰を切ったように共感し涙をこられられなくなる。
公害を起こした企業。住民の健康が蝕まれていっても会社優先の企業と企業戦士。原告となった被害住民たち。だがお金のために自分をも裏切らざるをえず崩れていく原告たち。裁判を放棄するとみえる弁護士などなど。・・・・・このそれぞれの立場と苦しみの狭間でさまざまに動く人間。そして死んでいく被害者たち。・・・・・誰もが善であり悪である現実。生きるという現実。


こうしたことをモチーフに、現代的なテロと何十年もひきずっている被害者の悲しみを織りながら2009年の新年を飾ったこのドラマ。犯人に狙われる元弁護士、現在大臣を正義の士がこれ以上似合う俳優はいないだろうと思う渡哲也が扮して、亀山薫という相棒が去って独りになっている右京さん(水谷豊)が、法務省の若き役人(田畑智子)と組んで、犯人および住民を裏切ったと見える大臣の深い心情を炙り出していくのだ。
こうした描き方を、もしかしたら、甘い、きれいごとと思う人もいるだろう。


でも私は癒されるのだ。犯人が、「ほんとは自分だってわかっている、大臣が悪いのではないことを」と泣き崩れるこの描き方で癒される。
監督はもしかしたら若き日々、ひたすら権力に拳を振り上げていった人なのかもしれない。その時は決して逃げたと思われる弁護士や被害住民にお金をちらつかせながら懐柔しようとする企業戦士を許すはずがなかっただろう。


でも時刻が過ぎ、憤りや憎しみや恨みのいきつくところに、「赦し」があることを、見られたのではないか、とすら思うのだ。それらは美化ではなく、諦めではなく、世事ではなく、その人が感じられたのだろう。
そう感じることが私には癒しなのである。そういう意味で、監督が甘くきれいごとなのではなく、私こそであるかもしれないが・・・。

なにはともあれ、年末のあわただしいひととき、楽しかった。まもなくくる新年SPが待ち遠しい。

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でもこのPCが本当に危うくなっていて、いつまでここで書く楽しみを維持できるかわからないのだが・・・。ま、それはそうなったでいいか。