今日の朝ぼらけに窓を開けて

命や思いやりや愛などいう言葉が横行するところにそれが在ったことがあったのだろうか。それが見えないことの苛立ちでそうした言葉を駆使する人らに随分たて突いたり、馬鹿にした言葉を発したり、冷笑したりした。そうしてその人たちにどれほど仕返しをされてきただろう。
年をとって、高齢の認知症の夫の介護をするようになり、暮らしも傾き、私たちが自分たちが知る以上に力のないものになった今も、時々、そうしたことで生じた傷が新たに痛む。そのたびに、それらの殆どが己の思い上がりや無知や愚かの所在するところに生じたと頭でわかっても、貶め汚名をきせた人への蔑視感と嫌悪は消えていないとわかった。そのことで尚自己嫌悪で惨めになった。


でも、今日の朝ぼらけに窓を開けて、そうした過去から今に至る痛みや、夫の介護を通して経験してきた介護や医療の実態について、自然に発生する思いにまかせていたところ、それらは特別なものではなく、この世に存在する全てにつながるものなのだということ、つまり、この世に生きていることにおいて、善も悪もない、ということ、善や悪があるように思うのは、それもまた己を飾り保身に生きようとしているにほかならないのだということが、冷気とともに自分を浸してきた。


もしかしたら、やっとやっと、親も他者も己をもゆるせるのかもしれない。そうして、夫と猫たちと犬たちと今のように生きることを、なんでもなくほんとにゆうゆうとのうのうと生きれるかもしれない。


※大事なことを書き忘れていた。だからといって、これは諦めや馴れ合いの世事に生きるということではない。言わずもがな、か。