夫の心身は良好

担当の看護師さん、ヘルパーさんから、入院後の夫について、「活発になりましたね。お話もよくされるし、身体の動きもしっかりして見違えるようになりました」と言われる。
私もそう感じていた。ほんとに目の輝きも違う。薬の成果もあろうと思うが、やはりリハビリと、この病院の看護体制にあるのではないだろうか。


看護師長さん→主任看護師さん(呼称はこうではないかもしれないが)→実際の看護にあたってくださる看護師さん、ヘルパーさんが一人一人の患者の状態を把握されており、そのことが信頼感を深くする。
それは当然ではないか、と思われるかもしれないが、いくつかの病院に入院してきたが現実はそうではなかった。認知症や高齢者はもう先がない、先がないからこんなもんでいい、といいかげんにされているのではないかという疑念と焦りとやりきれなさと悲しみがわいてならないところもあったし、ここは牢獄か、とふと思うようなところもあった。


うまく思うことをまとめられないが、「放置されていたとしか思えない”治療・看護”の元で最期を迎えさせてしまった」と家族に深い嘆きをおとす体制と、「これだけ毎日、親身に明るくスキンシップの行き届いた看護をされた」と家族に悲しみはあるもののある安堵をもたらせる体制があることの現実を、あらためて思い知ったし、そして医療体制の根本が、現在の私と夫がやっと得ている安心感を、全ての夫のような患者が得られる、というようにはないことのやりきれなさも新たに感じている。


感傷的な夢物語を言うようだが、人生の最期の近づいている人たち全部が、そこにいるのに忘れられているようななかではなく、しっかりと見つめられて養生ができる医療・介護体制になることを、心の底から毎日祈っている。富める人も貧しい人も、家のある人もない人も、変人もそうでない人も、ここではすべからく”同じ”でいいのだ。ただ慈愛のこもった明るさを注がれたら、それだけでいいのだ。